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写真は2007年6月21日に撮影しました。神田消防署前のJR高架橋です。
道路拡張に伴ってJR高架を支える支柱を何本か撤去して橋脚、橋桁の新設工事が完成なのであります。 終電車から始発電車の僅かな時間で作業をしながら、しかも日中は引っ切り無しに山手、京浜東北線の電車が行き来している、極めて危険で困難な工事だったと思います。 我が国が世界に誇る基礎土木工事、建築工学でしょうね♪いつも工事の進捗状況が気になり、密かに工事の無事完成を祈っておりました。 |
橋
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古地図を見ると現在の神田和泉町界隈にあった伊勢の津藩藩主 「藤堂和泉守」 の上屋敷が神田川の北側にあったことから、この名が付いたというのが定説になっているようです。北の橋詰に(写真左側)は千代田区が設置した「防災桟橋」、緊急時に極めて重要かつ有効な交通手段なのであります。 以前に「防災訓練」と称して浅草橋の屋形船にこの桟橋まで来てもらって実際に船が航行できるのか訓練をしました。大潮の時は微妙かと思います。お台場付近を往復し無事にこの桟橋へ到着〜♪ そこで川柳を一句『下町に坂は無いけど川はある』・・・おそまつ〜ぅ!? |
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昭和初期の弁慶橋は、江戸時代の風情が残ってますね〜。 今の赤坂見附付近は高速道路、高層ビルに囲まれてお堀だけが 辛うじて昔のままの姿を留めています。 この橋は神田愛染川に架けられていた「弁慶橋」を移築したものです。 オリジナルの橋全体の形はかなり複雑で、欄干の取付け、板の張りかた など苦労した跡を「江戸名所図会」に見ることが出来ます。 明治十八年(1885)藍染川が埋め立てられて、取り払われたこの橋 が移築完成(明治二十二年)して改めて弁慶橋と名付けられました。 この橋の設計者は江戸城普請の大工の棟梁であった「弁慶小左衛門」 の「弁慶橋」なのです。 参考資料:明神さまの氏子とお神輿
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今回は北の橋詰を国土交通省東京国道事務所、万世橋出張所の方千代田区の方立会い の下見学させて頂きました。下の写真の右側が北の橋詰です。 残念ながら普通の倉庫状態で内部も当時の形跡がわからないほど改修してありました。 また窓枠もご覧とおりアルミサッシに交換されてました。謎のまま見学会終了。 地下鉄銀座線の工事と共に行った萬世橋は我が街のシンボルなのであります。 写真は昭和7年、萬世橋駅も現役の頃です。 |
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当時、東京市の東京地下鉄道建設と一体で施工されました。工法は神田川を開削した大工事だった事が 銀座線建設の資料から判明しました。また橋詰は船着場として使用されていて葛西まで潮干狩りに出か けた地元にお住まいの方の証言も確かなようでした。施工後の管理は国で行っているようです。 当時から公衆トイレとして使用されていたそうです。現在使用中の橋詰公衆トイレの下です。 この調査は関係官庁、立会いの下に実施し同行させて頂きました。 江戸時代、神田川に架かっていた筋違橋は筋違見附の御門から江戸城に向う交通の要所でした。 現在の万世橋と昌平橋の中間地点付近に位置していました。 明治なって不要になった御門の石を利用して東京で初めて石造りのアーチ橋、万世橋が明治6年 完成しましたが、鉄道と駅の施設計画によって明治41年に撤去されてしまいました。 現在の位置にある先代の万世橋は明治36年に完成し、さらに明治45年に開業した万世橋駅と 周辺の町は、大変な賑わいで連雀町(現、須田町)界隈は当時発行された数々の絵葉書でその様子 を知ることが出来ます。 ところが大正12年、関東大震災で被災し壊滅的な損害を被ることになりますが、昭和初期に見事
に復興した連雀町界隈にある、いくつかの木造家屋や飲食店は今でも現役で使用されていて現在も、 当時の姿を留めています。現在の万世橋は昭和5年9月に完成して現在に至っております。 |



