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 今回も私が購読している日本政策研究センターの「明日への選択」に掲載されている小論文です(http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=381 )。
 安倍政権に最も期待されたことは、外交・安全保障の分野における保守政権としての毅然とした姿勢であったと思うのですが、支持率低下の最大の要因はこれに満足すべき方針を示せていないことにあると思われます。このことは櫻井よしこ氏など政権成立直後から危惧する声があったにもかかわらず、他方では保守勢力の中にさえそのことを評価する向きもあったことは全く驚くべき事です。そこで今回は安倍政権の中韓外交について同誌がどのようあ主張をしているかを検証し、その是非について論評したいと思います。

・「外交の評価というものは簡単には下せないが、今回の安倍首相の中韓への訪問外交は大いに成果があったのではないか、と筆者は考えている。政権発足早々、村山談話、河野談話を相次いで認めるというショッキングな展開があっただけに、保守派には訪問それ自体についてもむしろ困惑の方が多かったといってよいが、結果を見る限りこれまでの政権とは明確な一線を画す「主張する外交」が行われたと筆者には思えるからだ。
 むろん、単なる印象でいうのではない。例えば中国との間では日中共同プレス発表という文書が公表されたが、そこでは日本側の主張が毅然として貫かれた事実が読みとれるからだ。村山談話に関わる歴史認識についていえば、同談話に示されているような自虐的な認識は一切この文書には見られない。むしろ日本側は「戦後六〇年余、一貫して平和国家として歩んできたこと、そして引き続き平和国家として歩み続けていくことを強調」し、中国側は「これを積極的に評価した」となっている。
 九八年の日中共同宣言で村山談話の「遵守」を公約している以上、首相としては談話を継承するという姿勢を崩すことはできなかった。しかし、事前に報道されていたような、首相が会談においてその種の認識を重ねて表明する、といったこれまでの悪しき慣行は踏襲されることがなかった。換言すれば、「まず歴史認識ありき」のこれまでの外交からの脱却が明確になされたということなのである。

 「自虐的な認識は一切この文書には見られない」ことがなぜ評価すべきことになるのだろうか。そんなことは当然のことで、わざわざ北京まで行って確認することはなく、「主張する外交」と呼べるほどのものではない。逆に言えば、日本外交は今後、中国に対し敵対的な姿勢は取らないと表明しに行っているようなもので、そんなことで東シナ海ガス田問題など日中間の懸案事項について、何かプラスの要素に働くとは思えない。
 案の定、これ以後進行したことは、6か国協議における中国ペースの進行と安倍政権の靖国参拝断念であり、安倍政権における日本外交は、むしろ小泉政権時代より譲歩しているとしか思えない。
 「九八年の日中共同宣言で村山談話の「遵守」を公約している」からといって、それに未来永劫、縛り続けられなければならないものではない。条約でさえ改正することがあるのだから、単なる共同宣言など毎回毎回のものと考えるべきである。実際、韓国については金大中大統領が「両国が過去の不幸な歴史を克服し、21世紀に向けた未来指向的な関係を発展させていくことで合意いたしました」(平成10年10月8日小渕内閣総理大臣・金大中韓国大統領共同記者会見録)としながらも、それ以後もことある毎に歴史認識問題を議題にしていることは周知のことである。

・「韓国との首脳会談についてもそれはいえる。日中首脳会談とは異なり、盧武鉉大統領との会談では会談冒頭の四十分以上もが、慰安婦だの、歴史教科書だの、国立追悼施設だのについて割かれたという。しかし、首相は一切そうした議論に取り合わず、そうした歴史認識を文書に表そうとした韓国側の要求をも拒否した。かくて韓国とは共同の文書発表すら行われないという異例の展開になったのである。これもまた実に意義深いことだったと筆者は考える。
相手のつまらない議論に取り合わないのは当然としても、それなら一体、韓国には何のために行ったのだろうか。首相が行く以上、日本としての韓国に対する何らかの要求があってのことだと思うが、単なる参勤交代よろしきの顔見せなら行く必要はなかったろう。安倍総理には「韓国と日本は、自由と民主主義、基本的人権と法の支配という価値を共有しているからだ。」という無邪気な親韓感情しかないことは、第21回(http://blogs.yahoo.co.jp/kaneko_yoshiharu/14038120.html )の「美しい国へ」の論評で指摘したとおりだが、そのような個人的思いをそのまま外交に反映されたのでは、日本外交が立ち行かなくなるのは理の当然だろう。

・「とはいえ、何もかも万全だったというのではない。これまでのマイナスがようやくゼロに戻り、これからいよいよ正常な外交が展開される基盤が整ったというのが実際の所だろう。靖国神社参拝にしても、それをしない限りという条件は外させたものの、もちろんそれは今後の争点として残ったわけであり、首相が今後参拝した場合、そこで起こる反発をどう極小化させていけるかは、あくまでも今後の外交努力にかかるからである。
 このような無意味な訪中・訪韓は、実質的に靖国神社参拝中止の表明であるとしか思えないし、その後の現実はそのとおりになったのだが、この論文では全くそういう予想がないのは全く甘い認識としか言いようがない。

・「しかしながら、そうした問題を承知の上であえていえば、やはり今回の首脳会談は成功だったのではなかろうか。政治というものの要諦が「敵勢力の弱体化」にある限り、今回の外交は明らかに成果を挙げているからである。これによって、中韓との首脳会談ができないことが最大の問題点だと批判してきた野党や、自民党の媚中派からその攻撃材料を奪い取ることができたし、何よりも中韓に対し、わが国の政治への分断工作の道を断つことができたからである。これで首相は外交上のフリーハンドを得たし、来年の参院選に向け、これまでの守勢から攻勢に転ずることができたともいえよう。
 それだけではない。国際政治の文脈においても、首相は自らにマイナスとなる要素を減らした。というのも、欧米などのメディアでは首相を危険なタカ派だの、偏狭なナショナリストだのと評する報道が横行していたからだ。中韓との首脳会談の実現はそうした一方的なレッテル張りに、強烈な反証を提示した。木村太郎氏の指摘するところによれば、米議会本会議において目指されていた例の「従軍慰安婦問題に関する決議案」は、この会談実現が契機となって廃案となることが決まったという。安倍首相に対する警戒感が解消されたことがその理由だというのだ。馬鹿げた話とはいえ、事実とすればこれまた成果の一つだろう。
 そして何よりも重要なのは、最大の問題となっている北朝鮮の核実験に対し、中韓への力強い働きかけをなし得るポジションが確保できたことである。もしこれがなければ、日本の対応は米国を介しての中韓への働きかけという形に留まる他なかった。戦いはこれからとはいえ、これまた評価されていいポイントだと考えるのだ。

「野党や、自民党の媚中派」の主張に合わせることがなぜ「敵勢力の弱体化」になるのだろうか。実際に進行したことは、売国的という彼らの世間に対する弱みを安倍政権自らが封印してしまい、意図的に政治とカネや年金などの国内問題に世論と安倍政権を引きずり込むことに勢いづかせてしまったことである。
「従軍慰安婦問題に関する決議案」についても現実は逆に作用したとしか言いようがない。このようなアメリカにとって第三国間の問題を国内政治の政敵追い落としに利用するという米民主党の恥知らずな行為に対し、日本は反発しないという予断を与えてしまったと言えるだろう。
また、北朝鮮問題についてはいわずもがなである。

 さて総括すれば、つくづく外交というものは一歩引けば、相手は二、三歩出てくるものであって、日本的な謙譲の精神など全く通用のしない世界だと感じます。安倍政権が小泉時代の闘争型政治から自民党の伝統的な調整型政治に逆戻りしつつあることと、安倍外交の体たらくとは軌を一にしていると言わざるを得ません。外交をやる上で日本人に欠けた要素とはどういうものであって、それを身につけている人物が日本社会では必ずしもよい評価を受けないという現実はよく考えなければならないところです。

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 約2週間、所用でブログをさぼっておりましたが、本日からまた書き込みを再開いたします。今回も普通の本ではなく、私が購読している日本政策研究センターの「明日への選択」に掲載されている小論文です(http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=373 )。
 安倍政権の体たらくの原因は保守勢力の安倍総理への甘やかしが最大の原因だと言わざるを得ず、保守勢力と安倍支持勢力の一大牙城である日本政策研究センターもそのことには大きな責任があると思います。特にこれまで何度も主張していますが、安倍政権については誰に吹き込まれたのか、政権成立直後の無意味な訪中・訪韓とそれをせんがための村山談話及び河野談話の継承に物事の始めとしての問題があるので、このことに保守勢力から明確な反対がなかったのは返す返すも悔やまれます。それ以降の安倍政権の約10か月間の歩みは、方向性を誤ったことによる目的意識の不明瞭な政権運営に終始しており、本来の支持勢力からも見放され坂道を転げ落ちるように支持率が低下したのは宜なるかなと思います。
 安倍総理に対する保守派の物言いを聞いていますと、松井秀喜選手に対する地元石川マスコミの異様な賞賛ぶりに通じるものを感じます。確かに松井選手は謙虚で潜在能力があり、そのことを地元マスコミが賞賛したい気持ちは分かりますが、残念ながら7月10日の本ブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/kaneko_yoshiharu/13788443.html )で述べたように松井選手は外角球を強く打てないことと、打球を上に上げることができないというホームランバッターとしては致命的な欠点を持っています。このことは日本にいたときから指摘されており、メジャーに行ってから打率3割前後、ホームラン20〜30本という中途半端な成績しか上げられない根本原因になっているのですが、残念ながら松井選手の姿勢からはこれを技術的に克服しようという積極的意欲が感じられません。折角、日本中が期待しているのですから、リスクを覚悟してこれに挑戦して欲しいのですが、周りが誰も言わないのか、ご本人がこれを意識している風はありません。期待するからこそ短所については厳しく指摘すべきであり、無闇に賞賛するだけでは贔屓の引き倒しにしかなりません。
 とまれ、そこで今回は日本政策研究センター発行の上記雑誌に掲載された論文を取り上げ、安倍政権成立直後の無意味な訪中・訪韓とそれをせんがための村山談話及び河野談話の継承という問題についてそれらの論文がどのようあ主張をしているかを検証し、その是非について論評したいと思います。

・「今日6日の朝刊には、安倍首相の「歴史認識」に関わる答弁が取り上げられているが、その多くは悪意のある報道と言わざるを得ない。
 例えば、朝日新聞は「村山談話」「河野談話」を「首相、個人でも踏襲」(見出し)という記事。「村山談話」については、「国として示した通りであると、私は考えている」、「河野談話」には「私を含め政府として受け継いでいる」と答弁したことをあげ、「首相はこれまで両談話について『政府の立場』を説明してきただけだったが、個人としても受け入れる考えを示した」と報じた。
 この朝日の記事が取り上げた「村山談話」についての首相答弁について言えば、実際はこうである。
 安倍首相「その村山談話の中で述べているように、韓国の方々、あるいは中国の方々をはじめ侵略をされた、あるいは植民地支配にあったと。それは、まさに我が国がそのときに閣議決定した、国として示した通りであると私は、このように考えている」
 「私は」と述べたことをもって首相は個人としても「村山談話」を認めたと朝日はいうのである。しかし、これは明らかなミスリード、というよりは誤報だ。なぜなら、この発言に続いて、以下のようなやりとりが続くからである。
 菅氏「安倍総理は、植民地支配、侵略というこの歴史認識を認めたと」
 安倍首相「もう何回も申し上げた通り、閣議決定されたものです。私は内閣総理大臣として、また私の政府においてそれは引き継がれているということです」
 これがどうして「個人でも踏襲」になるのか。記者の頭のなかを見てみたい。
 河野談話についても同様だ。朝日が指摘した箇所は、「現在の政府の最高責任者の総理自身が受け継いでいることか」との菅氏の質問に対して、安倍首相が「当然、私は内閣総理大臣ですから、私を含めて政府として受け継いでいると、こういうことです」と答えた部分である。「私を含めて政府として」を「安倍個人として」と読み替えてしまう。これは悪意のある誤報というほかない。
 ともかく、この記事は「私の政府」の「私」、「私を含めて政府として」の「私」を、いずれも「個人」だとすり替え、あの「河野談話」「村山談話」を安倍首相が「個人でも踏襲」したと言い立てているのだ。もし、記者のいう通りなら、「私の政府」とは安倍首相「個人の政府」を意味することになってしまうわけで、そんなバカな話はない。
 朝日のみならず、読売「村山談話・河野談話―個人としても容認」も同様だ。東京新聞にいたっては、詳報欄で、韓国が(日本に)「侵略され」たということを閣議決定し、それを安倍首相が認めたように読めてしまうまとめ方をしている。彼らは記者席で何を聞いていたのだろうか。

 これは朝日のまとめ方の方が正しいだろう。村山談話は首相談話であるし、河野談話は官房長官談話であるから、法律のように国会の議決が必要なものとは違って、安倍総理の一存で否定できるものである。安倍総理は「私を含めて政府として受け継いでいる」としてあたかも受け継ぐ義務があるかのような物言いをしているが、安倍総理には受け継がなければならない義務はないのであり、否定するかどうかのイニシャティブを持っているわけである。それを受け継ぐとする安倍総理の答弁はまさに個人として受け継ぐ宣言であるにほかならない。

・「むしろ、「河野談話」について言えば、いわゆる「慰安婦」の「強制」については、「狭義の強制」(俗に言う「強制連行」である)と「広義の強制」(社会情勢や戦地での行動制限など)の問題を首相の方からとりあげ、「狭義の強制」の強制があったのかどうか、疑問すら呈している。
 安倍総理が「官憲が家に乗り込んで人さらいのように連れて行くような強制性はなかった」(産経新聞07年03月05日)と述べたのは事実であるが、米紙でその発言を批判されると、その後は微妙に表現を変えている。
 実際に訪米の際に「首相は、大統領との共同記者会見で、慰安婦問題についてこう語った。『慰安婦の方々に、人間として、また首相として心から同情しているし、そういう状況に置かれていたことに対して申し訳ない思いだ』『20世紀は、人権があらゆる地域で侵害もされた時代でもあった。21世紀を人権侵害のない素晴らしい世紀としていきたい』それに先立つ米議会幹部との会談でも、ほぼ同じことを述べ、訪米前の日本テレビや米CNNテレビのインタビューでも同じ言い回しを使った。」(産経新聞07年04月30日)とも発言しており、強制を認めていると言われてもやむを得ないだろう。
 そもそも米議会の主張の根拠は河野談話しかないのだから、安倍総理が総理就任直後に「河野談話は政府の調査結果に基づいておらず見直しが必要」と述べておれば、米議会が性急にこのような決議案を可決する危険性はなかったと言える。安倍総理は河野元党総裁に対する敬意からこのような曖昧な態度に終始しているもかもしれないが、党の先輩に対する敬意と国家の大事とはどちらが優先されるべきかは論を待たないところであり、このあたりが総理のリーダーシップに疑念を抱かせる大きな要因である。

・「要するに、これらマスコミは、「村山談話」「河野談話」は政府として受け継ぐだけではなく、安倍首相個人としても認めさせたい、もしくはそれに類似した言い回しがあれば「個人として容認」と書きたいという意図(それはまさしく悪意である)があるということに他ならない。
 そうした報道をする意図は何か。これは推測だが、安倍首相をこれまで支持してきた保守層をがっかりさせようという、共通の意図があるようにも思える。
 問題は極めて微妙な問題であるだけに、首相がどんな答弁をしたのか、報道を鵜呑みにすることなく、きちんと議事録で確かめてから議論すべきだろう。

 これはそのとおりであるが、マスコミの体質は先刻、明らかなことであり、彼らに言質を取られないような明確な対応が必要である。報道の内容以前に、政権成立後の総理の対応が、「安倍首相をこれまで支持してきた保守層をがっかりさせ」たことは事実であり、そのことは今回の安倍総理の靖国不参拝に最も明かなことである。

・「ちなみに、「狭義の強制連行」があったと散々騒いだにも関わらず、そのケースが見つからなかったために、途中から「広義の強制」が問題だと論理のすり替えを行ったのは他でもない朝日新聞であった。【この問題については、弊社の最新刊『対中韓「歴史認識」外交を問う』で詳しく紹介しています】
 このような経緯を考えれば、なおのこと広義の強制というような不明確な主張に依拠するのではなく、最初から明確に「慰安婦に強制はなかった」と発言すべきだろう。

 さて総括すれば、安倍総理の続投意欲の背景には「憲法改正のできる総理は自分しかいない」という強い自負があってのことだろうと思います。そのこと自体は否定しませんが、教育基本法でも事情は同様ですが、公明党の賛成する憲法改正案など所詮、内容はたかが知れているのであって、今の政権の枠組みの元では憲法改正に過剰な期待は禁物だと思います。前にも指摘しましたが、「神は細部に宿りたもう」であって、安倍総理には憲法から演繹的に物事を考えるという姿勢ではなく、一つ一つの問題の実質的な解決を最優先にして国政に当たり、結果として必要なら憲法改正も視野に入れるという姿勢が必要であると考えます。

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 今回も普通の本ではなく、原爆の日にちなんで久間発言を取り上げた朝日新聞の社説です(http://www.asahi.com/paper/editorial.html )。原爆投下の是非から拡がって核武装論反対の論調になるのはいつものことですが、北朝鮮の核問題もあるので、自分の勉強のために論評したいと思います。

原爆の日―「しょうがない」の罪深さ
・「原爆の日が、まためぐってきた。6日に広島、9日に長崎へ原爆が落とされ、62年がたつ。
 今年の被爆地は昨年までとは、いささか様相が異なる。長崎県出身で防衛相だった久間章生氏が原爆投下について「しょうがない」と述べたことが、さまざまなかたちで影を落としているのだ。
 久間氏の発言をもう一度、確かめておこう。
 「原爆が落とされて、長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、というふうに思っている」
 ●人が虫になった
 「原子爆弾を炸裂(さくれつ)させた時、ひとは神さまを捨てて、みんな虫になってしまったのだとわたしは思います」
 被爆2世である芥川賞作家の青来有一(せいらい・ゆういち)氏は、小説「爆心」で、長崎の被爆者の心境をこうつづっている。
 天災ならまだしも、心のある人間が、これほどの大量殺人を犯すわけがない。まして、原爆が落とされたのは、長崎市でもキリスト教徒の多い浦上地区だった。自分たちと同じ信仰を持つ米国人が、そんな無慈悲なことをするとは信じられない。人間ではなく、きっと虫になってしまったのだ。そんなあきらめにも似た思いが伝わってくる。

 事実認識であり、異論なし。

・「だが、それは「しょうがない」という気持ちとは違う、と長崎市の平和推進室長を務める青来氏は言う。「多くの被爆者は長い時間をかけて過去の傷をのみこんできた。もうこの先、地球上で核兵器を使わないようにするのならと、心の中で決着をつけてきたんです」
 被爆者には、仕返ししたい気持ちや恨みに思うことがあっただろう。だが、自分たちのような悲惨な体験はこれで最後にしたい。そう考えることで、多くの被爆者は、仕返しや恨みの気持ちに折り合いをつけてきたのだ。
 そうした複雑な感情も知らないで、被爆体験のない人から「原爆投下はしょうがない」などと安易に言われてはたまらないということだろう。

 久間発言自体はアメリカの慰安婦決議を前にして外交手段という点から全く不用意な発言で閣僚失格だとは思うが、青来氏が言っているのも「もうこの先」という将来のことであって、過去のことについては、「仕返しや恨みの気持ちに折り合いをつけてきた」のなら、それは「しょうがない」という発言と何が違うのかよく分からない。「しょうがない」と思わないのなら加害者に対し行動すべきだし、何も行動しないのならそれは「しょうがない」と言っているのと同じである。このような日本国民の有名無実的な姿勢が中国や朝鮮半島などの勢力によって、反核に名を借りた日本の外交姿勢の弱体化に利用されてきたのだと思う。
 法律的にはすでにサンフランシスコ平和条約19条で日本は賠償請求権を放棄したのだから、その問題から日本はクリヤしなければならない。アメリカが賠償請求権を放棄したのは同条約14条であるが、実際にアメリカでは捕虜の強制労働に関して同条項の解釈を変えようという法律案が提出されたことがあるそうである(否決された模様)。
 サンフランシスコ平和条約への対応については、私は日本の戦争責任の点で忸怩たる思いがあるが、今さらそれを否定したところでこの50年以上の長年月にわたって築かれてきた国際法体制を変えることはできないから、原爆投下だけを取り上げて云々するのは、為にする批判と言うべきだろう。
 もし久間発言をどうしても容認できないとするなら、日本の国会でもアメリカと同様の行為がなされるよう行動をすべきである。そうすることによって初めて日本の反核運動が単なる大義名分の領域から脱して実質的な効用を持ち出すだろう。そのときに中国や朝鮮半島がどのような態度を見せるかは見物であって、大手マスコミの洗脳に踊らされてきた日本国民の覚醒に大きな契機となるだろう。

・「●「非核」をどう訴える
 病理学者で原爆投下の歴史に詳しい土山秀夫・元長崎大学長は、むしろ久間氏が「しょうがない」の後に続けた言葉に注目する。「国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうこと(原爆投下)も選択肢としてはありうるのかな」という部分だ。
 直接的には過去のことを語っているが、現代でも場合によっては、核兵器を使うことができるとも聞こえる。現職の防衛相の言葉だけに、被爆者は怒りを増幅させたというのだ。

 「ありうるのかな」という言葉は「使われることもある」という意味であって、「使うことができる」という意味ではないことは明らかである。
 「国際情勢」には「戦後の」という修飾がなされていないが、これは全体の文脈からすると、すぐ後の「戦後の」は「国際情勢」にもかかっていると読むべきであろう。
 
・「世界を見渡せば、インド、パキスタンに続き、昨年は北朝鮮が核実験をした。核保有5大国の核軍縮は進まず、核不拡散条約(NPT)の信頼が揺らぐ。
 国内では麻生外相らが核保有の議論をすべきだと説く。そこへ、久間発言である。核兵器への抵抗感が、政治家の間で薄れているのではないか。そんな不安にかられたのは被爆者だけではない。

 事実認識であり、異論なし。

・「だが、果たして日本の国民は、久間氏の発言を一方的に非難ばかりできるのだろうか。そんな自問もしてみたい。
 日本はかつてアジアの国々を侵略し、米国に無謀な戦争を仕掛けた。しかも、無数の人命を犠牲にして、負け戦をずるずると引き延ばした。その揚げ句に落とされた原爆なのだ。

 「アジアの国々を侵略し」とあるが、日米戦争は人類の歴史上、日本民族に課せられた宿命的な戦争である。また、日中戦争はその下準備としてすでに米英の支配力が強かった中国の一定部分は占領しておく必要があったという意味でやむを得ない戦争であった。
 「無謀な」ということについては、確かに当時の日米の生産力の相違は大きいが、生産力の相違だけで戦争の勝敗が決まるわけではないし、そもそも戦争の是非と生産力の相違とは無関係な事柄である。
 「負け戦をずるずると引き延ばした」とことについては、形勢が悪いからといってすぐに降伏ができるわけではないから、本土決戦をまだやっていない当時の段階において、降伏していないのはやむを得ないだろう。
 
・「一方、戦後の日本はといえば、圧倒的な軍事力を持つ米国と安保条約を結び、「核の傘」に頼ってきた。それでいて、「非核」を訴えるという居心地の悪さもある。
 そうした事実を直視し、考えるきっかけにしなければいけないのではないか。
 問題は、だからしょうがないではなく、世界に同じ悲劇が起きないように、日本が何を訴えていくかだ。過去の歴史を反省し、アジアの国々と手を携える必要があるのはいうまでもない。

 「アジアの国々と手を携える」とあるが、中国や北朝鮮のように日本に核ミサイルの照準を合わせている国々がある中で、どこの国と何をすべきというのか。

・「●米国にも変化の兆し
 久間発言を支持したのは、多くの米国民だったかもしれない。
 米国では「原爆投下で戦争が終わり、100万の米兵が救われた」というような正当化論が依然、根強いからだ。
 だが、その米国にも変化の兆しがないわけではない。
 この夏、日系米国人のスティーブン・オカザキ監督の映画「ヒロシマナガサキ」が日本で公開されている。
 この映画が画期的なのは、米国で4000万世帯が加入するケーブルテレビが、制作資金を出したことだ。そのケーブルテレビで6日から全米に放映される。
 映画は被爆者14人と、原爆を投下した米軍機の乗員ら4人の証言でつづられる。投下の瞬間や、治療を受ける被爆者の映像が生々しい。500人の被爆者から話を聞き、完成まで25年を費やした。
 オカザキ監督は「9・11のテロ以降、米国人は核兵器が使われるのではないかということに現実味を感じている。今ほど被爆者の体験が重要な意味を持つ時代はない」と語る。
 広島では14万人が犠牲になり、長崎の死者は7万人に及んだ。生き残った人や後から被爆地に入った人も放射能の後遺症に苦しんだ。その恐怖を米国も共有する時代になったのだ。

 事実認識であり、異論なし。

・「久間発言によって鮮明になったことがある。日本の国民には、核を拒否する気持ちが今も強く生きているということだ。それを世界に示したことは、思わぬ効用だったかもしれない。
 この怒りを大切にすること。それは日本の使命である。

 「核を拒否する気持ちが今も強く生きている」とあるが、中国や北朝鮮の核を拒否する気持ちが果たしてどれだけあるのかというと疑わしく、余り評価することはできない。また、内心でどれだけ拒否しようとそれが行動となって表れなければ意味がないのであって、ましてや核を持っている北朝鮮にさえ援助しようとする人々が多い現状にあっては、むしろそれに賛成しているとしか思えない。

 さて総括すれば、今回の参院選でも明らかになりましたが、日本の世論は大手マスコミの論調で簡単に世論誘導される弱点があります。日本の大手マスコミには色々な外国資本が入っており、必ずしも日本の国益を主張しているとは限りませんから、日本国民は大手マスコミの発言だからと言って直ちに信用しないという用心深さが求められます。私のブログのような市井の主張に耳を傾けて頂いている方にとっては耳にタコですが、残念ながらインターネットにふれない人々にはこのような主張にふれる機会がありませんから、大多数の日本国民が洗脳され続けていくというのは本当に危険なことだと思います。

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