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約2週間、所用でブログをさぼっておりましたが、本日からまた書き込みを再開いたします。今回も普通の本ではなく、私が購読している日本政策研究センターの「明日への選択」に掲載されている小論文です(http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=373 )。
安倍政権の体たらくの原因は保守勢力の安倍総理への甘やかしが最大の原因だと言わざるを得ず、保守勢力と安倍支持勢力の一大牙城である日本政策研究センターもそのことには大きな責任があると思います。特にこれまで何度も主張していますが、安倍政権については誰に吹き込まれたのか、政権成立直後の無意味な訪中・訪韓とそれをせんがための村山談話及び河野談話の継承に物事の始めとしての問題があるので、このことに保守勢力から明確な反対がなかったのは返す返すも悔やまれます。それ以降の安倍政権の約10か月間の歩みは、方向性を誤ったことによる目的意識の不明瞭な政権運営に終始しており、本来の支持勢力からも見放され坂道を転げ落ちるように支持率が低下したのは宜なるかなと思います。
安倍総理に対する保守派の物言いを聞いていますと、松井秀喜選手に対する地元石川マスコミの異様な賞賛ぶりに通じるものを感じます。確かに松井選手は謙虚で潜在能力があり、そのことを地元マスコミが賞賛したい気持ちは分かりますが、残念ながら7月10日の本ブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/kaneko_yoshiharu/13788443.html )で述べたように松井選手は外角球を強く打てないことと、打球を上に上げることができないというホームランバッターとしては致命的な欠点を持っています。このことは日本にいたときから指摘されており、メジャーに行ってから打率3割前後、ホームラン20〜30本という中途半端な成績しか上げられない根本原因になっているのですが、残念ながら松井選手の姿勢からはこれを技術的に克服しようという積極的意欲が感じられません。折角、日本中が期待しているのですから、リスクを覚悟してこれに挑戦して欲しいのですが、周りが誰も言わないのか、ご本人がこれを意識している風はありません。期待するからこそ短所については厳しく指摘すべきであり、無闇に賞賛するだけでは贔屓の引き倒しにしかなりません。
とまれ、そこで今回は日本政策研究センター発行の上記雑誌に掲載された論文を取り上げ、安倍政権成立直後の無意味な訪中・訪韓とそれをせんがための村山談話及び河野談話の継承という問題についてそれらの論文がどのようあ主張をしているかを検証し、その是非について論評したいと思います。
・「今日6日の朝刊には、安倍首相の「歴史認識」に関わる答弁が取り上げられているが、その多くは悪意のある報道と言わざるを得ない。
例えば、朝日新聞は「村山談話」「河野談話」を「首相、個人でも踏襲」(見出し)という記事。「村山談話」については、「国として示した通りであると、私は考えている」、「河野談話」には「私を含め政府として受け継いでいる」と答弁したことをあげ、「首相はこれまで両談話について『政府の立場』を説明してきただけだったが、個人としても受け入れる考えを示した」と報じた。
この朝日の記事が取り上げた「村山談話」についての首相答弁について言えば、実際はこうである。
安倍首相「その村山談話の中で述べているように、韓国の方々、あるいは中国の方々をはじめ侵略をされた、あるいは植民地支配にあったと。それは、まさに我が国がそのときに閣議決定した、国として示した通りであると私は、このように考えている」
「私は」と述べたことをもって首相は個人としても「村山談話」を認めたと朝日はいうのである。しかし、これは明らかなミスリード、というよりは誤報だ。なぜなら、この発言に続いて、以下のようなやりとりが続くからである。
菅氏「安倍総理は、植民地支配、侵略というこの歴史認識を認めたと」
安倍首相「もう何回も申し上げた通り、閣議決定されたものです。私は内閣総理大臣として、また私の政府においてそれは引き継がれているということです」
これがどうして「個人でも踏襲」になるのか。記者の頭のなかを見てみたい。
河野談話についても同様だ。朝日が指摘した箇所は、「現在の政府の最高責任者の総理自身が受け継いでいることか」との菅氏の質問に対して、安倍首相が「当然、私は内閣総理大臣ですから、私を含めて政府として受け継いでいると、こういうことです」と答えた部分である。「私を含めて政府として」を「安倍個人として」と読み替えてしまう。これは悪意のある誤報というほかない。
ともかく、この記事は「私の政府」の「私」、「私を含めて政府として」の「私」を、いずれも「個人」だとすり替え、あの「河野談話」「村山談話」を安倍首相が「個人でも踏襲」したと言い立てているのだ。もし、記者のいう通りなら、「私の政府」とは安倍首相「個人の政府」を意味することになってしまうわけで、そんなバカな話はない。
朝日のみならず、読売「村山談話・河野談話―個人としても容認」も同様だ。東京新聞にいたっては、詳報欄で、韓国が(日本に)「侵略され」たということを閣議決定し、それを安倍首相が認めたように読めてしまうまとめ方をしている。彼らは記者席で何を聞いていたのだろうか。」
これは朝日のまとめ方の方が正しいだろう。村山談話は首相談話であるし、河野談話は官房長官談話であるから、法律のように国会の議決が必要なものとは違って、安倍総理の一存で否定できるものである。安倍総理は「私を含めて政府として受け継いでいる」としてあたかも受け継ぐ義務があるかのような物言いをしているが、安倍総理には受け継がなければならない義務はないのであり、否定するかどうかのイニシャティブを持っているわけである。それを受け継ぐとする安倍総理の答弁はまさに個人として受け継ぐ宣言であるにほかならない。
・「むしろ、「河野談話」について言えば、いわゆる「慰安婦」の「強制」については、「狭義の強制」(俗に言う「強制連行」である)と「広義の強制」(社会情勢や戦地での行動制限など)の問題を首相の方からとりあげ、「狭義の強制」の強制があったのかどうか、疑問すら呈している。」
安倍総理が「官憲が家に乗り込んで人さらいのように連れて行くような強制性はなかった」(産経新聞07年03月05日)と述べたのは事実であるが、米紙でその発言を批判されると、その後は微妙に表現を変えている。
実際に訪米の際に「首相は、大統領との共同記者会見で、慰安婦問題についてこう語った。『慰安婦の方々に、人間として、また首相として心から同情しているし、そういう状況に置かれていたことに対して申し訳ない思いだ』『20世紀は、人権があらゆる地域で侵害もされた時代でもあった。21世紀を人権侵害のない素晴らしい世紀としていきたい』それに先立つ米議会幹部との会談でも、ほぼ同じことを述べ、訪米前の日本テレビや米CNNテレビのインタビューでも同じ言い回しを使った。」(産経新聞07年04月30日)とも発言しており、強制を認めていると言われてもやむを得ないだろう。
そもそも米議会の主張の根拠は河野談話しかないのだから、安倍総理が総理就任直後に「河野談話は政府の調査結果に基づいておらず見直しが必要」と述べておれば、米議会が性急にこのような決議案を可決する危険性はなかったと言える。安倍総理は河野元党総裁に対する敬意からこのような曖昧な態度に終始しているもかもしれないが、党の先輩に対する敬意と国家の大事とはどちらが優先されるべきかは論を待たないところであり、このあたりが総理のリーダーシップに疑念を抱かせる大きな要因である。
・「要するに、これらマスコミは、「村山談話」「河野談話」は政府として受け継ぐだけではなく、安倍首相個人としても認めさせたい、もしくはそれに類似した言い回しがあれば「個人として容認」と書きたいという意図(それはまさしく悪意である)があるということに他ならない。
そうした報道をする意図は何か。これは推測だが、安倍首相をこれまで支持してきた保守層をがっかりさせようという、共通の意図があるようにも思える。
問題は極めて微妙な問題であるだけに、首相がどんな答弁をしたのか、報道を鵜呑みにすることなく、きちんと議事録で確かめてから議論すべきだろう。」
これはそのとおりであるが、マスコミの体質は先刻、明らかなことであり、彼らに言質を取られないような明確な対応が必要である。報道の内容以前に、政権成立後の総理の対応が、「安倍首相をこれまで支持してきた保守層をがっかりさせ」たことは事実であり、そのことは今回の安倍総理の靖国不参拝に最も明かなことである。
・「ちなみに、「狭義の強制連行」があったと散々騒いだにも関わらず、そのケースが見つからなかったために、途中から「広義の強制」が問題だと論理のすり替えを行ったのは他でもない朝日新聞であった。【この問題については、弊社の最新刊『対中韓「歴史認識」外交を問う』で詳しく紹介しています】」
このような経緯を考えれば、なおのこと広義の強制というような不明確な主張に依拠するのではなく、最初から明確に「慰安婦に強制はなかった」と発言すべきだろう。
さて総括すれば、安倍総理の続投意欲の背景には「憲法改正のできる総理は自分しかいない」という強い自負があってのことだろうと思います。そのこと自体は否定しませんが、教育基本法でも事情は同様ですが、公明党の賛成する憲法改正案など所詮、内容はたかが知れているのであって、今の政権の枠組みの元では憲法改正に過剰な期待は禁物だと思います。前にも指摘しましたが、「神は細部に宿りたもう」であって、安倍総理には憲法から演繹的に物事を考えるという姿勢ではなく、一つ一つの問題の実質的な解決を最優先にして国政に当たり、結果として必要なら憲法改正も視野に入れるという姿勢が必要であると考えます。
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