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蘂取郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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北海道蘂取郡の位置(11:蘂取村)
蘂取郡(しべとろぐん)は、北海道千島国根室振興局
以下の1村を含む。
当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を参照のこと。

概要

択捉島の北東端に位置し、東は得撫郡、西は紗那郡に接している。中心集落の蘂取には村役場のほか、病院や小学校、寺社が建てられ[1]、南岸のトルシリ地区には缶詰工場もあったが、人口は択捉島3郡中で最も少なく、さらに昭和初期に最多を数えた後、減少傾向となった。

歴史

郡発足までの沿革

江戸時代中期、蘂取郡域は東蝦夷地に属し宝暦4年(1754年松前藩によって開かれた国後場所に含まれた。天明6年と寛政3年には最上徳内が択捉島と得撫島を探検、寛政11年には高田屋嘉兵衛によって択捉航路が運営されるようになる。[2]
江戸時代後期にさしかかった、寛政12年には国後場所から分立した択捉場所に属するようになり、漁場が設けられ、同年、幕府の松前蝦夷地御用取扱近藤重蔵が、カモイワッカ岬近くの丘に2本目の「大日本恵登呂府」の標柱を建てた事が知られている。近藤によると、寛政12年には7郷中3郷6村(シベトル4村、マクマヨイ1村、トウロ1村)が蘂取郡域にあり、人口も300人程を数え、また11年後の文化8年にはオトイマウシにも集落ができている[3]。この間、継右衛門ら6名の慶祥丸乗組員たちが、漂着した北千島方面(幌筵島羅処和島)から得撫郡域を経て文化3年6月28日に択捉島の北端に到着し、7月2日に幕府の蘂取番所に到着した。その後、紗那郡域の会所に向かっている。文化11年ころには高田屋によって蘂取神社が創立されている。



大日本 アトイヤ 標柱
また、当時ロシア南下政策を強力に推し進めており、その脅威に備えるため寛政11年蘂取郡域は天領とされ南部藩津軽藩が警固をおこなっていたが、文政4年に松前藩領に戻った。その後、安政2年再び天領(今度は仙台藩警固地)となり、同6年の6藩分領以降、蘂取郡域は仙台藩領となっていた。このとき、「大日本恵登呂府」の標柱の痛みが激しくなっていたため、仙台藩士によって「大日本地名アトイヤ」と書き改めた標柱が立てられている。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して蘂取郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

人口

国勢調査の結果のうち、大正14年 - 昭和10年のデータは、昭和10年の国勢調査報告[6]より。
  • 明治26年 - 郡役所統計概表 120人(男64人、女56人)、戸数51[7]
  • 大正9年 - 国勢調査 1,193人(男1,013人、女180人)、世帯数108[8]
  • 大正14年 - 国勢調査 1,231人
  • 昭和5年 - 国勢調査 1,513人
  • 昭和10年 - 国勢調査 1,482人(男1,272人、女210人)、定住人口354人
  • 昭和15年 - 国勢調査 881人(男662人、女219人)、世帯数120[9]


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1799 幕府は東えぞ地(箱舘から知床までの東海岸)を7ケ年を限り仮直轄。
1799 夏、松平信濃守忠明東えぞ地を巡視、標津川をさかのぼり釧路川に出る野付に通行屋できる。
1800 伊能忠敬東えぞ地を測量して作図。
1801 幕府、石川忠房奉行に根室、標津、知床を巡視せしめる。江戸よりの探検船凌風丸7月12日忠類沖に碇泊。標津で始めて引網を試みる。
1802 幕府、東えぞ地を本格的に直轄、箱舘に蝦夷奉行所を設置。
1802 冬、西えぞ地斜里、宗谷の狩猟うすく、根室領メナシに至り救いを求めるもの218人に及ぶ。
1804 エトロフ島で始めて越冬した松田仁三郎は、帰路漂流し、標津へ上陸し二日逗留。
1806 斜里越道路、標津〜斜里間37里余り修理。
1810 高田屋嘉兵衛根室場所請負。
1811 6月 露将ゴローニンほか7人捕えられて、野付を経て松前へ護送。

1812 野付水道にて高田屋嘉兵衛露艦に捕えられ、カムチャッカに抑留。
1813 材木屋七郎右衛門、根室場所を5,634両で落札、請負となる

2016/10/8(土) 午前 7:25 [ 北海道にまた行きたいな ]

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天明5(1785)年、同6年の蝦夷地調査によって、ロシア人がわが北辺に迫っている事実が、はじめて幕府にも明らかにされた。
そもそも松前藩が、ロシア人の南下接近の報を聞いたのは、これより先、宝暦9(1759)年のことで、松前藩士湊覚之進が、厚岸に派遣されて滞留中、択捉および国後の酋長らから、一昨年(宝暦7年)クルムセ(北千島)におもむいたところ、赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受けた。その後、渡来するアイヌたちからも、ロシア人が次第に触手を伸ばし、島伝いに南下しつつあったことは、すでに聞き知っていたのである。

2016/10/9(日) 午前 4:06 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]

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標津の歴史
・1700年(元禄13年) 松前藩が元禄御国絵図を江戸幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初め。
・1701年 厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
・1774年(安永2年) 霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす
・1785年 幕府派遣のえぞ地分検隊が標津を通過。
・1786年 9月7日夜、幕府派遣の「神通丸」が標津沖で、「五社丸」は西別沖で暴風のため沈没。
・1789年(寛政元年) 国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず
・1794年 運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
・1796年 小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
・1859年 道東の開拓権を与えられた会津藩が陣屋を置く
・1879年(明治12年) 4月に戸長役場を標津に設け(標津町の開基)、標津と伊茶仁の2ケ村を統治し、6月には標津郡戸長役場となる。
・1880年(明治13年) 標津・目梨両郡戸長役場となる

2018/12/23(日) 午後 1:31 [ 国境・環境・歴史学習ツアー ]


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