寛平の韓寇翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。
9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験があり対馬守に配されていた文屋善友[28]は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った[28]。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。
捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。
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弘仁の新羅の賊
弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。
翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。
そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。
そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。
大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。
弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸した。新羅の賊は島民9人を打ち殺し101人を捕虜にした。
2018/9/2(日) 午後 5:43 [ 日本の美しい国と心と環境を護る ]
寛平の韓寇
『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。
貞観15年(873年)、小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請してた。
寛平5年(893年)5月11日大宰府「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す」。
翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲った。
寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。
9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、文屋善友は数百の軍勢で迎え撃った。
捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。
その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。
2018/9/2(日) 午後 5:54 [ 大地の清潔を守れ ]
標津の歴史
・1700年(元禄13年) 松前藩が元禄御国絵図を江戸幕府に献上。この図に「ちべ内」と記載。標津が文献に表われた初め。
・1701年 厚岸場所の奥地を分離して、霧多布場所を設ける。
・1774年(安永2年) 霧多布外3場所を飛弾屋久兵衛に請負わす
・1785年 幕府派遣のえぞ地分検隊が標津を通過。
・1786年 9月7日夜、幕府派遣の「神通丸」が標津沖で、「五社丸」は西別沖で暴風のため沈没。
・1789年(寛政元年) 国後、目梨のアイヌ反乱。和人70人を殺害。飛弾屋を免じ、村上伝兵衛に場所請負を命ず
・1794年 運上屋をノッカマップより根室へ移し、根室領と称す。
・1796年 小林宗九郎、熊野屋忠右衛門、根室場所請負人となる。
・1859年 道東の開拓権を与えられた会津藩が陣屋を置く
・1879年(明治12年) 4月に戸長役場を標津に設け(標津町の開基)、標津と伊茶仁の2ケ村を統治し、6月には標津郡戸長役場となる。
・1880年(明治13年) 標津・目梨両郡戸長役場となる
2018/12/23(日) 午後 1:46 [ 国境・環境・歴史学習ツアー ]