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平戸市内の遺跡から出土した考古資料を展示しています。特に弥生時代の遺跡として知られる里田原遺跡出土の木製品は貴重な資料です。普通遺跡から見つかるものは土器や石器が主で木器−木製品は残りにくいのですが、里田原では地下水と粘土にパックされたため残っていました。それを保存処理して展示しています。木製品には鍬や鋤、斧や手斧の柄、杓子やしゃもじ、赤と黒の漆塗りの容器、櫛や剣の柄、柱やはしご、用途が不明の木製品等様々なものがあります。
また、里田原では木製鍬の未成品や製作工程のわかる資料が出土しており、木器を作る工人のムラと考えられています。日本で12例しか見つかっていない多鈕細文鏡とよばれる鏡や新潟県糸魚川産のヒスイの勾玉も出土していますが 九州本土最西北端にある田平町は、アジア大陸に近いという地理的位置から日本文化の起源を探る上では重要な位置にある。(旧石器時代の「日ノ岳遺跡」、縄文時代の「つぐめのはな遺跡」、長崎本土では数少ない前方後円墳である「笠松天神社古墳」など著名な遺跡がある。中でも多量の木製品が出土した「里田原遺跡」は、稲作文化の成り立ちと展開を示す貴重な遺跡。この資料館は里田原遺跡出土の木製品を主に展示している。
遺跡は海抜50〜60メートルの丘陵に取り囲まれた小盆地底に位置する。
弥生時代から中世にかけての稲作遺構を中心とした遺跡である。1972年(昭和47年)より1987年まで23次にわたる発掘調査が長崎県と田平町教育委員会により行われ、水田とそこへ水を引き込むための水門、板や杭を用いた護岸の遺構、鍬や鋤などの農業用具、弓やタモなどの漁労用具、しゃもじや藤籠といった生活用具など多数の木製用具が発見された。
また、この遺跡からの花粉分析によると、夜臼式土器の時期にはイネ属型の花粉と住片が急増する。そしてシイノキ属、アカガシ亜属などの照葉樹林の主要構成種の花粉が極端に減少する。またイネ属型ともにオモダカ属、ミズアオイ属などの水田雑草の花粉も増加する。この結果から、夜臼式時期には水田稲作農業が導入されたことが明らかになった。夜臼式時期に稲作が開始されていたことはプラントオパールの分析結果からも判明している。
また、支石墓も確認されており、弥生時代当時としては最先端の文化が根付いた集落が存在していたとみられている。
弥生時代の網かご
石鏃
日本の石鏃(黒曜石製) 石鏃(せきぞく)は、道具・武器の一種。石を材料として作られた鏃(やじり。矢尻とも、また矢先や矢の根とも)。矢の先端に紐などで固定させて用いる、刺突用の小型の石器である。石製の鏃(せきせい-、いしせい-)などとも言う。また古い言い方では石弩(いわのやのね)、矢の根石(やのねいし)などとも言う。
日本の石鏃縄文時代の鏃は、厚みが薄く、三角形である。それに比べ、弥生時代中頃の近畿地方の鏃は分厚くて重く、中には三角形のものもあるが、大多数は木の葉型である。重さは、鉄や青銅の鏃に匹敵するという。重いほど打撃力が増す。縄文時代にはシカやイノシシを獲るには軽く、速く、遠くへ飛ぶ鏃で充分有効であった。しかし、弥生時代に入っても初めのうちは軽い鏃を使っていたが、紀元前1世紀から1世紀ごろの近畿地方から香川県にかけての地域では、形が大きく重さも重くなり、深く突き刺さる鏃が現れるようになった。つまり、武器としての使用も増えた[2]。
文献上の記録として、『日本三代実録』に、9世紀末石鏃が発見された記事があるが、人工物であることは忘れ去られ、天神が用いて地上に落としたものと解釈されている。石鏃が古の人工物と認知されたのは江戸時代になる。
107年(後漢永初元年)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、捕魚者など何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。
石斧縦斧と横斧斧は縦斧と横斧の二つに大きく分けることができる。縦斧は刃が柄と平行、または柄と刃部が一直線に、横斧は刃と柄が直交するように付けられている[1]。一般には縦斧(平行刃斧)を斧(オノ)、横斧(直交刃斧)を手斧(チョウナ)と呼んでいる。しかし、両者をオノと呼ぶことが多い。鉞(マサカリ)は大型の縦斧(平行刃斧)である。[2]
製作方法とその変遷(日本における例)石斧の作り方に打製と磨製がある。礫の自然面をほとんど残し、打製か磨製、あるいはその両方によって刃を付けた程度のものは、「礫器」、「礫斧」(れきふ)と呼ばれる。礫斧のうち刃を磨いたものを「局部磨製石斧」あるいは「刃部磨製石器」または「刃部磨製礫器」という。[3]
旧石器時代後期旧石器時代では打製石斧もしくは局部磨製石斧がつくられた。先土器文化における石斧は「斧形石器」「楕円形石器」と呼ばれているが、扁平な円礫あるいは大きな礫を打ち割った剥片の周辺を打撃して形を整えたものである。局部磨製石斧とは、刃の部分だけを磨いて実用に供したものである。片刃がやや多いが両刃も少なくない。先土器時代の末期から縄文時代の草創期にかけては断面三角形またはカマボコ形を呈する片刃の御子柴型石斧が盛行する。これはロシア沿海州やシベリア地方との関連の深い遺物と考えられている。
縄文時代縄文時代に入ってこれらに加え磨製石斧が作られた。旧石器時代からの刃部のみの研磨された局部磨製石斧はだんだん姿を消していく。全面研磨されたものは草創期に出現する。縄文時代早期から前期にかけての北日本では、砥石状工具を用いた擦切技法(すりきりぎほう)が発展する。しかし、この技法は縄文時代中期末にほぼ消滅する。擦切技法の石斧とともに定角式磨製石斧も現れるが、この石斧が定型的な形を持ち、広い分布と出土量の多さを示してくるのは縄文中期末頃である。縄文後期になると、長さ2〜2.5cmの磨製石斧のミニチュアがみられるようになる。小さいながらきわめて精巧にできているものが多く、研磨も行き届いて美麗なものが増える。なかには穴を空けたものもあり、とても実用品とは思われない。縄文後期・晩期になると呪術的な遺物が著しく発達することからも、磨製石斧も儀器や装飾品としての意味合いを濃くしたものと考えられる。
いっぽう打製石斧は、縄文時代早期末に、三味線の撥(バチ)に似た形状で、鋭い剥離面を刃部とした片刃の石斧が北日本にみられ、それは「直刃斧」あるいは「トランシェ様石器」といわれ、後世の「手斧」のような使用が考えられる。縄文中期中葉以降、関東地方や中部地方では打製石斧の数量が爆発的に増加するが、形状は短冊形、撥形、分銅形のものが多く、これらは垂直に打ち下ろす「斧」には向いていない。乳棒状磨製石斧や定角式磨製石斧など伐採具に適した道具が他にあることからも土掘りの道具と考えられている。
縄文時代中期の打製石斧の製作所跡としては熊本県合志市二子山が知られている。粗割りの後、次の作業工程に都合良くしたり、さらに打撃を加えて整形したりする工程が四つほどに分けられる。そして、その場で完成品を製作するのではなく、未完成のまま各集落に運ばれる。[3]
弥生時代磨製石斧は、原石を粗割りして打撃で整えるた後、磨くことが多い。例えば、太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)は、大まかに粗割りした後、打撃を加えて形を整え、こつこつと敲いて全面を平らにした後、磨く。つまり、粗割り・敲打・琢磨の段階を経て完成される。基部近くは粗く磨き(grind)、刃部はていねいに磨く(polish)。完成品の身の一部には敲打(こうだ)の痕跡をとどめることも多い。例としては、北九州では福岡市西区今宿の今山・今津の太型蛤刃石斧製作跡がある。ここでは、製品としてしあげられ、広い範囲にもたらされている。畿内では大集落の多くで未製品が見られるから未製品のままで各地に運ばれたと見られる。[3]
用途とその広がり
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