平戸 歴史平戸島は遣隋使・遣唐使・遣新羅使の頃から寄港地として利用され、海外との重要な交通拠点となっていた。平安期には「ひら」「ひらのしま」と呼ばれていて、「ひら」には「比良」「庇羅」「飛鸞」などの字が当てられた。肥前国と庇羅の島の間の瀬戸が「ひらのと」と呼ばれ、これに因んで鎌倉時代から「平戸島」と呼ぶようになった。平安期以降は松浦党の本拠地となり、八幡(ばはん : 倭寇を含む海賊)も活動した。
鎌倉時代中期、大陸に大勢力を築いていたモンゴル帝国(大元ウルス)により二度に亘り、日本は侵攻を受けた(元寇)。一度目の侵攻の文永の役では、平戸島も元軍の襲来を受けたが、博多湾から上陸した元軍は、日本側の激しい抵抗を受け撤退する。
続く二度目の侵攻である弘安の役では、元軍は朝鮮半島から進発したモンゴル兵、女真兵、高麗兵などから成る東路軍と旧南宋領から進発した旧南宋・漢兵などからなる江南軍の二方向から日本に侵攻した。
平戸島は、この東路軍と江南軍の合流地点となった。 元軍が平戸島に目を付けたのは、平戸島が太宰府に近く、地勢として軍船を停泊させるのに便利であり、日本側の防備が無かったためである。平戸島に到着した元軍は、日本軍の襲来に備えて、平戸島に塁を築いて陣地を構築した。東路軍は壱岐島の戦いの後、平戸島に移動し、江南軍と合流した。合流を完了させた元軍は、平戸島に部隊を残して、鷹島に移動すると日本側と海戦となる(鷹島沖海戦)。その後、台風を受けた元軍は、継戦か撤退かを巡り軍議を開くと撤退に決し、平戸島に在陣する軍勢は平戸島に軍船の軍馬を捨てると、軍船に人員を収容して撤退していった。
1550年(天文19年)にポルトガル船が来航し、平戸港は南蛮貿易港として機能するようになる。フランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会宣教師によってキリスト教(カトリック)が布教されたが、その後はキリスト教弾圧の舞台にもなった。
ポルトガル船は1561年(永禄4年)の宮ノ前事件により貿易拠点を佐世保湾内の横瀬浦(大村藩領・現在の西海市西海町横瀬)へ移してしまったが、1584年(天正12年)にはイスパニア、その後オランダ・イギリスの船も来航した。また1599年(慶長4年)には、平戸藩初代藩主となる松浦鎮信によって最初の平戸城築城が始まった。
1609年(慶長14年)にオランダ商館、1613年(同18年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立された。しかしその後の鎖国政策によって1623年(元和9年)にイギリス商館閉鎖、オランダ商館も1641年(寛永18年)に長崎の出島へ移転して、平戸港における南蛮貿易は終わった。以後の平戸港は平戸藩の城下町として栄えた。
1889年(明治22年)の町村制度施行で、島内には1町7村が置かれた。その後1925年(大正14年)の平戸町・平戸村の合併で1町6村、1955年(昭和30年)に平戸市1市体制となり、2005年(平成17年)に周辺町村との合併で新市制の平戸市となった。
多くの史跡・文化財、および豊かな自然から、1955年(昭和30年)に周辺地域とともに西海国立公園に指定され、島の24%が国立公園の範囲内となった。また、交通ではかつては対岸の平戸口桟橋(旧北松浦郡田平町)からのフェリー航路に頼っていたが、1977年(昭和52年)に平戸大橋が開通し、九州本土との交通が便利になった。
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