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オランダ商館   

オランダ商館は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。オランダ東インド会社設立の翌年である1603年、ジャワ島バンテンに設置したものをはじめとしてアジア各地に開設された。1609年にはアユタヤと日本の平戸に設置され、後者は1641年長崎出島へ移転した。



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平戸オランダ商館

1609年慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、ヤックス・スペックスが初代商館長となった。民家72戸分を立ち退かせて建設した。1628年タイオワン事件で一時閉鎖されたが、1632年に再開。

しかし1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に江戸幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承、1641年長崎出島へ移転した。以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地は出島のみに限定された。






復元平戸オランダ商館

復元された平戸オランダ商館の外観

平戸の商館跡地は、1922年10月12日に「平戸和蘭商館跡」として「出島和蘭商館跡」と共に国の史跡に指定された。オランダ商館が出島に移った後、この付近は商人地となっていたが、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など商館時代の遺構は現在でも残っている。1987年から本格的な発掘調査が開始され、2000年の日蘭通商400周年をきっかけに復元計画が進み、2011年には1639年建造の倉庫(長さ約46m、幅約13m、約2万個の砂岩を使った2階建てで日本初の洋風建築)が復元され、同年9月に「平戸オランダ商館」としてオープンした。各地から収集された絵図、書物、絵画、航海用具、日用品、貿易関係品、武器等が展示されている。




オランダ東インド会社   

VOCアムステルダム本社のロゴ
現在使われていない歴史的な旗?オランダ東インド会社の旗

オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日オランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。

資本金約650万ギルダー重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワ長崎出島などに置かれた。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられた。
江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた。




歴史

設立までの背景

16世紀後半、スペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていたオランダは、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていた。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていた。こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。

1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島バンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。さらに、1600年イギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。

こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとした。6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダムホールンエンクハイゼンデルフトロッテルダムミデルブルフに置かれた。

設立後

旧VOCアムステルダム本社

設立当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦った。
1605年には、スラウェシ島に上陸。

1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。
1623年にモルッカ諸島アンボイナ事件が勃発し、オランダ東インド会社が日本人の傭兵を含むイギリス商館のイギリス人を虐殺した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドのムガル帝国攻略に向かう転換点となった。
1628年から1629年にかけて、ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退した。1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになった。

また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。イギリス東インド会社フランス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになる。

主要年表


家康の交易要請

1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号豊後に漂着し、その乗組員は徳川家康に保護された。家康は海外貿易に熱心であり、1604年に朱印船制度を実施した。さらに1605年には、平戸藩初代藩主であった松浦鎮信が新造した朱印船で、リーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナックと乗員のメルキオール・ファン・サントフォールトオランダ総督マウリッツに宛てた親書を持たせ、オランダ東インド会社の交易拠点であるパタニマレー半島)へと派遣した。しかしながら、オランダ東インド会社は1602年に設立されていたものの、ポルトガルとの競争が激しく、直ちに日本との貿易を開始する余力はなかった。

当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。この指令に従い、1609年フルフーフは平戸に向かった[3]。スペックスもこの一員に加わった。


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1609年平戸オランダ商館の設立



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スペックスは11隻からなるフルフーフの艦隊の一員として、1607年にテセルから出帆した。バンタムに到着後、日本との交易を開始するため2隻が日本に向かった[4]
慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの家康の朱印状。オランダ船は日本のどこにも寄港できると記されている。

この2隻は、デ・フリフューン号(De Griffioen、砲19門)とローデ・レーウ・メット・パイレン号(Roode Leeuw met Pijlen、400トン、砲26門)である。両船は1609年7月2日に平戸に到着した[5]

直ちに、アブラハム・ファン・デン・ブロックとニコラス・ピュイックの2名がマウリッツの親書を持って駿府の徳川家康のもとに赴き、通商を要請した。家康は慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの朱印状を下付し、オランダ船の来航と安全を保障し、また来航地と商館設置場所の自由を与えた。このときの通訳は、リーフデ号の乗組員であったメルキオール・ファン・サントフォールトで、当時長崎で交易を行っていた。

スペックスが所有していたレンブラントの「ガリラヤ湖の嵐の中のキリスト」(1633年)160 x 127cm。この絵は1990年に盗難に合い現在も行方不明である

家康は江戸に近い浦賀での交易を期待していたようだが、船上会議において、平戸に1軒の家を借り、オランダ商館を設立することが決定された。当時太平洋側の航路は十分開拓されておらず、またスペイン・ポルトガルの交易地である長崎に近く情報収集に便利であるということがその理由であった。スペックスは初代の商館長に任命され[6]、スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスはウィリアム・アダムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めた。1610年、スペックスは朝鮮にも船を派遣している[7]

さらに、3代目の商館長として1614年から1621年まで平戸にあった。この間の1620年、平山常陳事件が起こるが、スペックスはイギリス商館長であったリチャード・コックスと協力して事件の解決に貢献している。



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バンテン州

   
州の標語: "Iman Taqwa"IndonesiaBanten.png








公式サイト
バンテン州
Banten
Seal of Banten





www.banten.go.id/
バンテン州[1] (インドネシア語: Banten) はジャワ島西部に位置するインドネシアの州。 州都はセラン2014年の人口は1183万4087人。 2000年西ジャワ州から分離した。

歴史

16世紀より、イスラーム教国のバンテン王国が栄えた。当時のムスリム商人は、スマトラ島のアチェ王国などと往来し、ポルトガルの進出に対抗した。16世紀後半になると、海禁を解除したことを受けて、中国船の往来も増加した。16世紀末になると、スペインからの独立を図るオランダが、スペインの勢力下(本来はポルトガル領だが、当時はスペインがポルトガルを併合していた)にあるマラッカ海峡を回避して、スンダ海峡沿いのバンテンに寄港した。その後、この地にオランダは商館を設け、さらに東方のアンボイナ島にまで進出した。


転載元転載元: 海洋文化交流/貿易振興


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