北方領土問題の経緯(領土問題の発生まで)北方領土問題が発生するまでの歴史的経緯、概要は次のとおりです。
第2次世界大戦までの時期
第二次世界大戦と領土問題の発生
この後の北方領土問題の解決に向けた政府の取組については、「日ソ・日露間の平和条約締結交渉」と「北方四島をめぐる日露協力の進展」のページを御参照下さい。
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常設仲裁裁判所 常設仲裁裁判所 設置 管轄 所在地 認可 ウェブサイト
常設仲裁裁判所(じょうせつちゅうさいさいばんしょ、英: Permanent Court of Arbitration、仏: Cour d'arbitrage international de La Haye)は、1899年の第1回ハーグ平和会議で設立された常設の仲裁法廷である。1899年に採択された原条約は1907年の第2回ハーグ平和会議で改正され、103の国が原条約または改正条約のいずれかを批准している。当裁判所はオランダ・ハーグに設置されている。
国際司法裁判所とは別の機関である。
常設仲裁裁判所は国家・私人・国際機関の間の紛争における仲裁・調停・国際審査の運営を行うため、その業務は国際法と国際私法の両領域を含む。当裁判所は事務局および仲裁人候補者リストによって構成され、紛争当事者はこのリストから裁判官を選定することになる。
当裁判所の公的な作業語はフランス語および英語であるが、紛争当事者間の取り決めにより合意された言語で開廷することができる。当裁判所の手続規則はUNCITRAL(国際連合国際商取引法委員会、CNUDCI)の仲裁規則に基づいている。仮に国家主権原則により当裁判所が強制的管轄を有さなくとも、言い渡された仲裁判断は強制力を有する。
ハーグ司法ポータルは、ハーグに所在する国際機関および国際裁判所のあらゆる情報および文書へのアクセスを提供しているが、当裁判所とも密接な連携を保っており、常設仲裁裁判所重要裁判集の作成プロジェクトを立ち上げている。
外部リンク中国の詭弁 中国は、南シナ海のほぼ全域に対して主権が及ぶかのような主張をしてきたが、そもそも、国連海洋法条約等の国際法に照らせば、その主張が通らないということを理解している。だからこそ中国は、慎重に「領海」という言葉を使うのを避けてきた。中国外交部(日本で言う外務省)なども、「中国は、南シナ海に存在する全ての島嶼およびその付近の海域に、議論の余地のない権利を有する」と主張してきたのである。
「付近の海域」とは、極めてあいまいな表現である。中国は、わざとあいまいな表現を用いたのだ。実質的には、「中国の権利は南シナ海全てに及ぶ」と言いたいのだが、国連海洋法条約に定める「領海」では、南シナ海全体をカバーできない。反対に「南シナ海全体に主権が及ぶ」と言ったら、明らかに国際法違反になってしまう。そこで、「付近の海域」という表現になる。
さらに、「領海」以外に、中国の権利を主張するための根拠として、「歴史的権利」という概念を持ち出してきた。「国連海洋法条約はともかく、中国はもっと古くから南シナ海全体を管理してきたのだから、中国のものだ」という理屈である。そこで、「主権」という、領土や領海に対して用いられる言葉を避け、「管轄権」なる概念で権利を主張してきたのだ。
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リーフデ号 リーフデ号 基本情報 船種 運用者 建造所 経歴 就航 最後 要目排水量 推進器乗組員 その他
リーフデ号(リーフデごう、蘭: De Liefde)は、慶長5年3月16日(1600年4月19日)に、豊後国(現大分県)に漂着したオランダの商船。300トン。船長はクワッケルナック。漂着地は臼杵湾の黒島ともされるが、豊後国のどの地点かは不明。
概要[船名の「Liefde」はオランダ語で「愛」を意味する単語。元々はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した「Erasmus(エラスムス号)」という船名であった。しかしこの名称が付けられた経緯、また変更された経緯については不明である。
2年前に本国オランダのロッテルダムを出航。初めは5隻の船団であったが、マゼラン海峡通過後の太平洋で、悪天候などにより離散した。乗組員は110人ほどいたが、生存者は僅かに24名。生存者の中にも重傷者が多く、翌日に3人が死亡したという。生存者の中には江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)も含まれていた。日本に到着した初めてのオランダ船。また、アダムスは、日本に初めて来たイギリス人であった。
漂着後、大坂に回航され、後浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没したとも言われる)。宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康は関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。この漂着事件のことをリーフデ号事件ともいう。
なお、リーフデ号そのものは現存しないが、リーフデ号の船尾に飾られていたというエラスムスの木像が現存している。旗本牧野成里の領地である栃木県佐野市上羽田の龍江院が所蔵している。龍江院ではこの像を船を発明したという伝説を持つ貨狄(かてき)の像(別名「貨狄尊者」、「貨狄観音」)として祀った。このエラスムス像は昭和5年(1930年)に国の重要文化財に指定され、東京国立博物館に寄託されている。高さ105cm、あるいは3尺4寸5分。頭にかぶり物をし、右手には巻物を持つ。巻物の第1行には「ER(AS)MVS」、第2行には「R(OT)TE(RDA)M1598」とある。体内には空洞があり、直径は下部で2寸4分、上部で1寸8分。その空洞を通じて背面から前面に通じる孔穴が中央および下端の2箇所にある。
関連項目
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オランダ商館オランダ商館は、オランダ東インド会社によって設けられた貿易の拠点。オランダ東インド会社設立の翌年である1603年、ジャワ島のバンテンに設置したものをはじめとしてアジア各地に開設された。1609年にはアユタヤと日本の平戸に設置され、後者は1641年に長崎の出島へ移転した。
平戸オランダ商館1609年(慶長14年)、オランダとの正式国交が開けた時に平戸に設置され、ヤックス・スペックスが初代商館長となった。民家72戸分を立ち退かせて建設した。1628年にタイオワン事件で一時閉鎖されたが、1632年に再開。
しかし1640年、建物の破風に西暦年号が記されているのを口実に江戸幕府はオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承、1641年に長崎の出島へ移転した。以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地は出島のみに限定された。
復元平戸オランダ商館平戸の商館跡地は、1922年10月12日に「平戸和蘭商館跡」として「出島和蘭商館跡」と共に国の史跡に指定された。オランダ商館が出島に移った後、この付近は商人地となっていたが、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭、護岸石垣など商館時代の遺構は現在でも残っている。1987年から本格的な発掘調査が開始され、2000年の日蘭通商400周年をきっかけに復元計画が進み、2011年には1639年建造の倉庫(長さ約46m、幅約13m、約2万個の砂岩を使った2階建てで日本初の洋風建築)が復元され、同年9月に「平戸オランダ商館」としてオープンした。各地から収集された絵図、書物、絵画、航海用具、日用品、貿易関係品、武器等が展示されている。
オランダ東インド会社
VOCアムステルダム本社のロゴ オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社、オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。
資本金約650万ギルダー、重役会は17人会(Heeren XVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれた。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられた。
江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた。
歴史設立までの背景16世紀後半、スペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていたオランダは、スペインによる貿易制限、船舶拿捕など、経済的に打撃を受けていた。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルが、1580年にスペインに併合されていたことで、ポルトガルのリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていた。こうした中、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペイン(と併合されていたポルトガル)に対抗する必要があった。
1595年から1597年までの航海を通じてジャワ島のバンテンとの往復に成功を収めると、いくつかの会社が東南アジアとの取引を本格化させた。しかし、複数の商社が東南アジア進出を図ったために現地(東南アジア)での香辛料購入価格が高騰した上、本国(オランダ)で商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落する一方であり、諸外国との経済競争を勝ち抜く上で不安が残された。さらに、1600年にイギリス東インド会社が発足したことは、この懸念を深めさせた。
こうした中、ホラント州の政治家オルデンバルネフェルトは、複数の商社をまとめてオランダ連合東インド会社を発足させ、諸外国に対抗しようとした。6つの支社から構成されており、それぞれはアムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ミデルブルフに置かれた。
設立後1605年には、スラウェシ島に上陸。
1623年にモルッカ諸島でアンボイナ事件が勃発し、オランダ東インド会社が日本人の傭兵を含むイギリス商館のイギリス人を虐殺した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドのムガル帝国攻略に向かう転換点となった。
1628年から1629年にかけて、ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退した。1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになった。
また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。イギリス東インド会社やフランス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになる。
主要年表
家康の交易要請1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号が豊後に漂着し、その乗組員は徳川家康に保護された。家康は海外貿易に熱心であり、1604年に朱印船制度を実施した。さらに1605年には、平戸藩初代藩主であった松浦鎮信が新造した朱印船で、リーフデ号の船長であったヤコブ・クワッケルナックと乗員のメルキオール・ファン・サントフォールトにオランダ総督マウリッツに宛てた親書を持たせ、オランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へと派遣した。しかしながら、オランダ東インド会社は1602年に設立されていたものの、ポルトガルとの競争が激しく、直ちに日本との貿易を開始する余力はなかった。
当時オランダ本国はスペインに対する独立戦争を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ(Pieter Willemsz. Verhoeff)に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。この指令に従い、1609年フルフーフは平戸に向かった[3]。スペックスもこの一員に加わった。
1609年平戸オランダ商館の設立この2隻は、デ・フリフューン号(De Griffioen、砲19門)とローデ・レーウ・メット・パイレン号(Roode Leeuw met Pijlen、400トン、砲26門)である。両船は1609年7月2日に平戸に到着した[5]。
直ちに、アブラハム・ファン・デン・ブロックとニコラス・ピュイックの2名がマウリッツの親書を持って駿府の徳川家康のもとに赴き、通商を要請した。家康は慶長14年7月25日(1609年8月24日)付けの朱印状を下付し、オランダ船の来航と安全を保障し、また来航地と商館設置場所の自由を与えた。このときの通訳は、リーフデ号の乗組員であったメルキオール・ファン・サントフォールトで、当時長崎で交易を行っていた。
家康は江戸に近い浦賀での交易を期待していたようだが、船上会議において、平戸に1軒の家を借り、オランダ商館を設立することが決定された。当時太平洋側の航路は十分開拓されておらず、またスペイン・ポルトガルの交易地である長崎に近く情報収集に便利であるということがその理由であった。スペックスは初代の商館長に任命され[6]、スペックス含め6人が平戸に残ることとなった。スペックスはウィリアム・アダムスの協力を得ることができ、1613年まで商館長を勤めた。1610年、スペックスは朝鮮にも船を派遣している[7]。
さらに、3代目の商館長として1614年から1621年まで平戸にあった。この間の1620年、平山常陳事件が起こるが、スペックスはイギリス商館長であったリチャード・コックスと協力して事件の解決に貢献している。
バンテン州
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平戸 歴史平戸島は遣隋使・遣唐使・遣新羅使の頃から寄港地として利用され、海外との重要な交通拠点となっていた。平安期には「ひら」「ひらのしま」と呼ばれていて、「ひら」には「比良」「庇羅」「飛鸞」などの字が当てられた。肥前国と庇羅の島の間の瀬戸が「ひらのと」と呼ばれ、これに因んで鎌倉時代から「平戸島」と呼ぶようになった。平安期以降は松浦党の本拠地となり、八幡(ばはん : 倭寇を含む海賊)も活動した。
鎌倉時代中期、大陸に大勢力を築いていたモンゴル帝国(大元ウルス)により二度に亘り、日本は侵攻を受けた(元寇)。一度目の侵攻の文永の役では、平戸島も元軍の襲来を受けたが、博多湾から上陸した元軍は、日本側の激しい抵抗を受け撤退する。
続く二度目の侵攻である弘安の役では、元軍は朝鮮半島から進発したモンゴル兵、女真兵、高麗兵などから成る東路軍と旧南宋領から進発した旧南宋・漢兵などからなる江南軍の二方向から日本に侵攻した。
平戸島は、この東路軍と江南軍の合流地点となった。 元軍が平戸島に目を付けたのは、平戸島が太宰府に近く、地勢として軍船を停泊させるのに便利であり、日本側の防備が無かったためである。平戸島に到着した元軍は、日本軍の襲来に備えて、平戸島に塁を築いて陣地を構築した。東路軍は壱岐島の戦いの後、平戸島に移動し、江南軍と合流した。合流を完了させた元軍は、平戸島に部隊を残して、鷹島に移動すると日本側と海戦となる(鷹島沖海戦)。その後、台風を受けた元軍は、継戦か撤退かを巡り軍議を開くと撤退に決し、平戸島に在陣する軍勢は平戸島に軍船の軍馬を捨てると、軍船に人員を収容して撤退していった。
1550年(天文19年)にポルトガル船が来航し、平戸港は南蛮貿易港として機能するようになる。フランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会宣教師によってキリスト教(カトリック)が布教されたが、その後はキリスト教弾圧の舞台にもなった。
ポルトガル船は1561年(永禄4年)の宮ノ前事件により貿易拠点を佐世保湾内の横瀬浦(大村藩領・現在の西海市西海町横瀬)へ移してしまったが、1584年(天正12年)にはイスパニア、その後オランダ・イギリスの船も来航した。また1599年(慶長4年)には、平戸藩初代藩主となる松浦鎮信によって最初の平戸城築城が始まった。
1609年(慶長14年)にオランダ商館、1613年(同18年)にウィリアム・アダムス(三浦按針)によってイギリス商館が設立された。しかしその後の鎖国政策によって1623年(元和9年)にイギリス商館閉鎖、オランダ商館も1641年(寛永18年)に長崎の出島へ移転して、平戸港における南蛮貿易は終わった。以後の平戸港は平戸藩の城下町として栄えた。
1889年(明治22年)の町村制度施行で、島内には1町7村が置かれた。その後1925年(大正14年)の平戸町・平戸村の合併で1町6村、1955年(昭和30年)に平戸市1市体制となり、2005年(平成17年)に周辺町村との合併で新市制の平戸市となった。
多くの史跡・文化財、および豊かな自然から、1955年(昭和30年)に周辺地域とともに西海国立公園に指定され、島の24%が国立公園の範囲内となった。また、交通ではかつては対岸の平戸口桟橋(旧北松浦郡田平町)からのフェリー航路に頼っていたが、1977年(昭和52年)に平戸大橋が開通し、九州本土との交通が便利になった。
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