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登城日 2007年 4月 4日(水)晴時々雪 難易度 ☆☆ 場所 岡山県真庭市勝山 鎌倉時代終わりの延元元年(建武3年、1336)関東地方の名族三浦氏の当主である三浦高継は足利尊氏より美作国にある新田義貞勢を討伐するよう命じられた。 湊川の戦いで高継は楠木正成と戦っておりこの頃に勝山城の前身である高田城が築かれたと考えられている。 室町時代初期の延元5年(1340)、貞宗は美作真島郡の地頭に任ぜられた。 貞宗は着任と同時に今川了俊の縄張りにより現在の勝山の2つの丘陵に築城したと伝えられている。 この地は南流した旭川が大きく曲がり東流する地点であり、これが天然の堀となっている。 天文13年(1544)時の当主貞久は尼子晴久麾下の宇山久信に攻められたがこれを撃退している。 天文17年(1548)貞久が死去し弱冠11歳の貞勝が当主となる。 この機に乗じ宇山久信に再び攻められ一旦は落城する。 しかし、永禄2年(1559年)貞勝は尼子氏が毛利元就に攻められている隙を衝いて高田城を奪還した。 永禄年間には弱体化した尼子氏に代わって毛利氏が中国地方に台頭した。 永禄8年(1565)備中松山城主三村家親は毛利氏の麾下となり高田城を攻め、1ヶ月の攻城戦ののち落城し貞勝は自刃して果てた。 この時、妻のお福は子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びた。 このお福は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいる。 永禄9年(1566)宇喜多直家によって三村家親が暗殺されると、三浦家臣団は貞久の末弟・貞盛を擁立して高田城の奪還を果たした。 しかし、永禄12年(1569)再び毛利軍によって落城し貞盛も討ち死にした。 三浦氏による高田城奪還戦はこの後も続く。貞勝の弟・貞広を大将に城を攻め続けた。 当初、宇喜多氏の援助による攻城を行っていたが、そのうち宇喜多氏は諦めて兵を引き上げた。 代わって尼子氏遺臣・山中鹿介の援軍により元亀元年(1570)三度の高田城奪還に成功したのである。 奪還に成功したとはいえ、この地は毛利氏・宇喜多氏の2大勢力に挟まれ絶えず双方より侵攻される非常に不安定な地位にあった。 天正4年(1576)宇喜多氏は城主・貞広に毛利氏との和議を説き、遂に城は毛利氏に明け渡された。 なお、お福とともに宇喜多氏の庇護を受けていた貞勝の遺児・桃寿丸は天正12年(1584)京都で地震に遭い死去し、ここに美作三浦氏の血統は絶えた。 その後は毛利氏の支配下にあり楢崎元兼が城主となった。 天正12年(1584)備前・美作は宇喜多秀家の所領となり牧氏が城代となった。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで秀家が敗れると備前・美作には小早川秀秋が入封し高田城に城代が置かれた。 慶長8年(1603)からは森忠政が津山城主となると、勝山も津山藩領となり高田城には各務氏・大塚氏が城番として入った。 元禄10年(1697)森氏が改易となると勝山は天領となり一旦は廃城となった。 明和元年(1764)三河国西尾城より譜代大名の三浦明次が2万3千石をもって真島郡を領し勝山藩が成立した。 なお、藩主となった三浦氏はかつての城主・三浦氏とは祖先を同じくする、いわば遠縁にあたるわけである。 明次は幕府より4千両の城修築費援助を受けて、かつての高田城を改修し勝山城と名付けた。 以後、明治維新まで三浦氏の居城となった。 明治4年(1871)廃藩置県により廃城となった。 (wikipediaより)美作高田城は岡山県にあるものの、備中高梁よりもさらに北の山奥にある。 JR姫新線の中国勝山駅から近いものの、そもそもJRで行くのは本数も少なく至難の業である。 詳しい地図で見る 高田城の模型。 別名を勝山城という。 城は2つの山からなる。 手前に出城があり、奥が本丸。 案内図。 城下町の風情が残っています。 三浦坂。 お殿様がお墓参りに通った坂だそうです。 三の丸跡。 (市役所付近) 説明板。 発掘により出土した石垣がそのまま保存されている。 三の丸の奥から登城開始。 小屋の段。 七曲りのような坂を登ると本丸へ到着。 別角度。 本丸は一段高い。 本丸。 特に何もありません。 (石垣があったらしいが、見落としました) ここで雪がたくさん降ってきたので一時雨宿り。 4月だというのにビックリしました。 雪がなかなか止まないので、急いで下城。 二の丸。 今はグランドになっています。 向こうに見える山が出城。 (今回は行けませんでした。) 二の丸の東にあった櫓台。 草茫々で良く解りません。 しかし、下から見上げると… う〜ん、何かあるぞ。 近づいて覗き込んで見ると、高石垣がありました。 出城も行ってみたかったのですが、天候不良と時間の関係で断念しました。 ちょっと残念。 |
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高田城は興味があったので、とってもありがたいです♪
じっくり調べられていて、いつもすごいと思います!
模型などをみると、やはりなかなかの規模ですね!
室町期からとは知りませんでした!
アド、村、ぽち★
2009/4/6(月) 午後 5:11 [ - ]
駐車場横の遺構が面白いですね。
三浦坂も風情がありそうです。^^
2009/4/6(月) 午後 9:29 [ mat**u_p*pa ]
やまたろうさん
相模の三浦氏が代々死守したお城です。
街の規模にしては城は大きかったです。
出丸へ行けなかったのがとても残念でした。
2009/4/7(火) 午前 6:29
マッツゥさん
三浦坂付近は武家屋敷が残っており、なかなか良かったですよ。
結構観光客がいました。
2009/4/7(火) 午前 6:30
勝山の三浦坂は平成16年ごろ付けられた名前です。何の根拠もありません。二の丸の石垣は明和元年に入部した三浦氏が作った櫓台です。江戸時代末期二の丸での訓練の時に殿様がそこから見たという日記があります。
2012/5/3(木) 午後 10:20 [ sotyann ]
三浦坂はそんな最近に名付けられたのですか。
ちょっとガッカリしました。
2012/5/6(日) 午後 10:23