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場所 京都市中京区河原町通二条南入一之船入町537-4 桂小五郎も出入りした長州藩邸跡です。 京都市役所の東側にありました。 詳しい地図で見る 現地解説板です。 【解説板の内容】 高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩(山口県)毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。 藩邸は、初め南北2か所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70メートル)、裏行31間(約56メートル)、南側屋敷は表口30間(約54メートル)、裏行8間(約14メートル)に及んだ。 元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え続けたという。 明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場(かんぎょうじょう)が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた。 その後、明治4年2月に京都近代化政策の一環により産業振興の中枢機関として勧業場が設置された。 洋館2階建ての建物が創建され、商工業に関する事務・特産品の陳列などが行われたり、欧米各国の先進技術を導入した各種生産や製造施設が設けられた。 明治10年2月2日に、明治天皇が勧業場を視察されている。 明治14年(1881)に実験的役割を果したものとして廃止された。 長州藩邸跡の石碑の近くに碑が建っています。 【おまけ】 現在では、京都ホテルオークラが建っています。 この建物を建築するにあたり激しい景観論争が繰り広げられた。 京都ホテルオークラの起源は神戸の実業家、前田又吉が明治21年(1888)に川端二条で創業した旅館「京都常盤」である。 前田又吉は、神戸・諏訪山で「常盤花壇」という料亭を経営していた。 この料亭を開くにあたって、旧三田藩主九鬼隆義の出資を受けたという。 今ではその料亭の庭に建っていた石碑のみが、ホテルの裏に移されて現存しています。 【『前田又吉銅像記』の現代訳】 前田又吉の銅像が成った。 又吉の遺族が来ていうには、 「又吉は、かつて伊藤公の知遇を得ました。公が京都や兵庫に来られた際には、いつも又吉の家に泊まられました。又吉の事績については、公はよくご存じですから、どうか、詩文にして、後世に遺していただきたいのです」と。 それで、又吉の歩んだ道をふりかえって見ることにした。 私が又吉を知ってから、三十年以上にもなる。 又吉は市井にあっても、たいへんよく世の中の動きをさとっていた。 それ故、往々、人の意表をつくような事業を始めた。 たとえば、鉱泉を開いたり。公園を造ったり、会館を設けたり、貧者を救済したりである。 どれも世の中に役立つことばかりだ。 これは後世に伝え遺すべきことだと思い、つぎのような詩をつくった。 神戸之郷 四時清和 海洋々兮 山峩々兮 又吉開荒 泉出山阿 煙供浴場 能痊沈痾 徳長誉長 千載不磨 明治二十六年十月 伯爵 伊藤博文 撰印 (京都ホテルHPより) 又吉泉記です。 【『又吉泉記』の現代訳】 神戸の諏訪山に霊泉が涌いた。 英国人某が、これを鉱泉として利用することをすすめたが、誰も信用しなかった。 ただひとり前田又吉が、資産を注ぎ込み、荒れ地を拓いて酒楼を建て庭をつくって温泉料亭をひらいた。 おかげで、人も住まなかった地が、数年のうちに、繁華な地になった。 これみな、前田又吉の功績である。 この泉を又吉泉と名付けることとした。 一六居士巌谷修撰書 明治15年10月 (京都ホテルHPより) |
京都史跡めぐり
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伊藤博文は人殺しをするたびに名前を変えてきました。
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2010/8/1(日) 午前 7:42