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場所 京都市中京区槌屋町、薬師町、東夷川町、薬屋町 【赤松満祐邸跡】 播磨・備前・美作の守護職を兼ねた室町幕府の有力守護大名赤松満祐の邸は、「建内記」嘉吉元年(1441)6月24日条によれば、「西洞院以西、冷泉以南、二条以北」にあった。 これは現槌屋町を中心に薬師町・東夷川町・薬屋町の一部にまたがり、この地はかつての陽成院跡の南部にあたる。 この赤松満祐邸は嘉吉の変の起こった所で、嘉吉元年6月24日、六代将軍足利義教を迎えて酒宴が催され、観世音阿弥が「鵜羽」を演能中、満祐は将軍義教を弑逆した(建内記)。 この事件は義教の有力守護大名抑圧という方針を背景に、赤松満祐が、三ヵ国守護職没収とその赤松貞村への付与という風評を恐れ、将軍弑逆を謀ったのである。 事件後、赤松満祐は自宅に火を放ち播磨に下ったが、9月山名持豊を中心とする幕府追討軍に敗れ、城山城(現兵庫県揖保郡新宮町)で自害。 満祐の首は京都に送られ、三条西洞院の新獄にさらされた。 (平凡社「日本歴史地名体系27 京都市の地名」より) 西洞院二条下るにある京菓子店「二條若狭屋」。 この北側一帯に赤松満祐邸があったと云う。 付近一帯は宅地化してしまい全く痕跡は無い。 槌屋町内にある福永弁財天。 由緒があれば知りたかった… 赤松満祐は赤松円心則村のひ孫で、播磨・備前・美作の守護大名。 満祐はその背丈の低さから三尺入道などと呼ばれていたと云う。 応永34年(1427)に父赤松義則の没後その跡を継ぐ。 一方、籤引きによって将軍に選ばれた足利義教は、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活を図り、永享11年(1439)に関東管領足利持氏を討ち(永享の乱)、また翌年一色義貫、土岐持頼を殺害してその領国を没収するなど強権を振るいだす。 当初は足利義教とも良好な関係にあった赤松満祐だったが、赤松氏庶子家の満政・貞村らを厚遇したためにしだいに疎んじられ、弟赤松義雅の所領は没収、赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れる始末。 そして、事件は嘉吉元年(1441)6月24日に起きた。 「鴨の子が多数出来」たことと、関東の足利持氏征伐を終えた慰労という名目で足利義教を赤松満祐邸へ招いた。 赤松満祐は酒宴の最中に嫡子の教康と弟の則繁に暗殺を命じた。 一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。 癇性な足利義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅(近江浅井氏の祖公綱の父)は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。 その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。 酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う。 山名熙貴(石見守護)は抵抗するがその場で斬り殺された。 細川持春(伊予分郡守護)は片腕を斬り落とされ、京極高数(出雲・隠岐・飛騨守護)と大内持世(周防・長門・豊前・筑前守護)も瀕死の重傷を負い、後日死去した。 公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。 庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。 赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。 赤松満祐ら一族は幕府の追手が攻めて来たら自害する覚悟でいたが、夜になっても幕府軍は攻めて来なかったので、自邸を焼き払い、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。 幕府は、突然独裁者足利義教を失い混乱し、容易に討伐軍を編成出来なかった。 討伐軍が播磨に向けて京を出発したのは7月11日だった。 (おまけ) 赤松満祐邸跡に京都党なる地域政党が事務所を構えていた。 下剋上でも起こすのだろうか? |
京都史跡めぐり
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以前、加古川市の志方町にズバリ”満祐寺”という古寺が有り、
訪ねたのですが詳しい事は聴けませんでした。
また鹿多さんという住職の寺が有り、志方・四方・鹿多の関係を
知りたかったのですが、お留守で聴けませんでした。
残念!(三島由紀夫=平岡一族も志方町に居られるようです!)
さて満祐の墓所は何処に有るのでしょうか?
2012/2/10(金) 午前 8:29 [ KAKUIRAN ]
KAKUIRANさん
コメント有難うございました。
志方町の満祐寺は気になりますね。
情報有難うございました。
2012/2/10(金) 午後 11:59