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登城日 2010年11月23日(火)曇
難易度 ☆☆☆
場所 三重県津市美杉町奥津
国指定史跡
【霧山城跡】
徒歩約15分
昭和11年9月3日指定
南北朝時代の興国4年(1343)、初代伊勢国司北畠顕能公が築いた山城跡で、標高610m、現在も塁壕跡や鐘撞堂跡がそのまま残っており、当時の山城の典型的な様式がうかがえる全国の山城では数少い大規模なものである。
美杉村教育委員会
北畠氏館跡庭園へ行く前に霧山城へ登ることにしました。
霧山城は北畠氏館の背後の山頂にあります。
大宮戸川に沿って登って行きます。
その前に雪姫亭で腹ごしらえ。
伊勢うどんも食べれます。
霧山城登城口。
ここから1350m。
比高差約240m。
ガイドマップ片手に登城開始!
北畠氏館跡庭園を見下ろしながら登る。
最初は急な坂が続く。
約7分で北畠氏館詰城跡に到着。
説明板。
【北畠氏館詰城跡】
詰城跡は、北畠氏館跡の裏山の尾根上に立地し、館跡との比高差は約80mあります。
館跡の南西から山道を登りきった現在位置が、詰城の帯曲輪Aにあたります。
この曲輪は南斜面にも回り込んでいて、山道にも利用されています。
帯曲輪Aの北端には高さ1m程の壇状の高まりがあり、その北側には竪堀もあります。
帯曲輪Aから山道を登ると、詰城の中心的な曲輪Bに到ります。
東西約35m、南北約10〜17mの平坦な曲輪で、山道は曲輪Bに入る城内路であった可能性もあります。
また、曲輪Bの西の尾根には、小規模な曲輪と堀切や竪堀を設けて防御性を高めています。
津市教育委員会
縄張図を拡大。
帯曲輪Aの北端の壇状高まり。
曲輪B。
石列かな?
帯曲輪Aを見下ろす。
逆方向(西側)を見下ろす。
曲輪Bの南側の帯曲輪を進む。
曲輪B西側に土壇と堀切がある。
先へ進みます。
振り返って曲輪Bを見上げる。
木の階段を登って行きます。
ゆるやかな坂道が、
ここから急になる。
分かれ道注意!
特に帰り。
約2分程登って霧山城へ到着。
麓から約30分でした。
縄張図。
復元想像図。
まず、鐘撞堂跡。
南側の土塁。
鐘撞堂跡から本丸を見る。
鐘撞堂跡から西を見下ろす。
鐘撞堂跡を下りる。
鐘撞堂跡を見上げる。
鐘撞堂跡に比べ斜面は緩やか。
本丸へ。
本丸。
周囲を土塁が囲んでいた。
城址碑。
もう一つ。
説明碑。
【史跡 霧山城跡】
(昭和11年9月3日指定)
霧山城は、南北朝時代の北畠氏の居城である。
南朝方のもっとも有力な公卿であった北畠親房の子の伊勢国司顕能が延元元年(1336)父とともに入国すると、伊勢地方に南朝方の城砦が設けられた。
本城は、興国3年(1342)頃築城されたらしい。
この城は、標高600mの霧山の天険を利用して、本郭をはじめ、道場、米倉、鐘撞堂などが配置され、堀切と土塁で防備されていた。
また、麓には多気館(現北畠神社境内)が置かれた。
顕能がこの地を選んだのは地形が防禦に適していたことのほかに、伊勢、吉野間の交通連絡と兵糧輸送の便を考えたものと思われる。
伊勢地方の南朝方の拠点が相次いで北朝方に攻め落されたときも、本城に足利軍が侵攻したという記録はない。
両朝統一の後、北畠氏はこの地方の大豪族として勢威を振ったが、天正4年(1576)織田信長に攻撃され、本城もついに落城した。
伊勢地方の城跡の中で歴史的にもっとも著名な城として、昭和11年に国の史跡に指定されたものである。
昭和48年2月建立
文部省
美杉村教育委員会
本丸の土塁。
本丸西側の切岸。
本丸の南西の米倉跡。
本丸を西から見る。
本丸から鐘撞堂跡を見る。
本丸の北側の土塁。
櫓台のよう。
本丸の北にある矢倉跡へ。
矢倉跡。
ここも土塁が囲んでいたのだろう。
矢倉跡北側の堀切と土塁。
矢倉跡から本丸を見る。
城下方面を見る。
山深いなぁ〜
矢倉跡、本丸東側を通って下山。
きれいに整備されて大変見やすい城でした。
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