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場所 京都市上京区弁財天町付近 長禄2年(1458)に加賀北半国守護となった赤松政則であったが、加賀へ下向することはなく京都にいたようだ。
寛正3年(1462)9月には京都で起こった大規模な土一揆を畠山政長に協力して鎮圧し、戦後に政則は将軍・足利義政より感状と太刀を与えられた。 そして、寛正6年(1465)12月26日に義政の偏諱を授かり元服する。 この時、次郎法師丸は赤松政則となった。 さて、赤松政則の邸宅は何処にあったのか。 寛延3年(1750)に森幸安によって書かれた『中古京師内外地図全』。 この図をよく見てみると室町殿(花の御所)の西側に「赤松兵部」の文字が見える。 兵部とは官位「兵部少輔」のことかと。 赤松政則とその養子である赤松義村がともに兵部少輔だった。 地下鉄に乗って今出川駅下車。 中世では北小路と呼ばれていた今出川通を西進。 室町通と交差する南側は北小路室町。 室町殿の別邸、北小路殿があった。 そして、しばらく進むと北側に上京区役所が見えてくる。 この辺りの南側に今図子町があり、管領細川勝元の宿所、北小路屋敷があった所と云う。 上京区役所。 通りを挟んで南側にある今出川通新町東入るの地蔵堂。 この辺りの町名は堀出シ町。 室町幕府の所在地の周囲に堀があったことに由来。 住民図記載のとおり、旧今出川通は真っ直ぐだった。 新町通(町小路)と交差。 新町通を北へ進むと近衛殿(現、同志社大学新町校舎)があった。 今出川新町の交差点付近は元新在家町。 元は白雲村といい、絹織物生産が盛んだった。 新たに出来た集落を新在家と称したが、織物生産に水質が不適だとの理由で、天正16年(1588)現京都御所の白雲神社付近へ移り、それに対応して当地が元新在家と言われるようになった。 赤松兵部邸は白雲村にあったようです。 また、隣接する宝傳寺は現堀出シ町の北付近にあり、「堀出シカクシ」は堀出薬師の誤写ではないかとの説あり、宝傳寺の薬師堂のことかとも。 宝傳寺の西隣に臨済宗東福寺派の聖寿寺があった。 ということは、この辺りかな。 それとも旧今出川通に面したこの辺りかな。 元新在家町の西隣の弁財天町は、足利義尚の小川御所の鎮守であった弁財天の祠があったことに由来。 弁財天町内を東西に貫く旧今出川通を西から見る。 旧今出川通はここで直角に曲がり北進する。 この辺りは南兼康町。 室町時代に歯科医丹波兼康の屋敷があったことに由来。 今出川通の北側には北兼康町もある。 かなり大きな屋敷があったのかと思うも、『中古京師内外地図全』と『中昔京師地図全』のどちらにも載っていない。 南兼康町と西隣の針屋町にかけては細川澄元の屋敷があったらしい。 旧今出川通は南兼康町内で現今出川通と合流し西進。 この辺りが細川澄元の屋敷の北端。 中小川町で、 小川通と交差。 通りの名は、昭和後期までが流れていた小川(こかわ)に由来。 交差点付近に羅漢橋という橋が架かっていた。 永正8年(1511)8月、室町幕府10代将軍足利義尹(義稙)が細川高国、大内義興らの兵を率いて、船岡山で11代将軍足利義澄、細川澄元、細川政賢らの兵と合戦し京都を奪回。 この橋の上で細川政賢が戦死したと伝わる。 (この戦いの後、敗れた足利義澄の遺児は播磨置塩城へ逃れ、赤松義村の元で養育され、やがて12代将軍足利義晴となる。) 羅漢橋があって、東に羅漢寺があったので、すると赤松兵部邸は元本満寺町の南端付近かな。 中古京師地図は一時期を捉えた地図ではないので、下京を見ると平清盛の西八条第が載ってたりする。 だいたいこの辺りなんだろう。 京の名所旧跡(目次)へ戻る |
京都史跡めぐり
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