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登城日 2013年 1月12日(土)曇 難易度 ☆☆☆☆ 場所 岡山県和気郡和気町田土 【天神山城】 浦上宗景によって築城された連郭式山城である。 享禄4年・天文元年(1931)に宗景が入城して以降、数度の普請を行い完成した。 城の規模約5ha、標高 338m、比高310m。 吉井川が東に湾曲する辺り、田土(和気町田土)と岩戸の境にある急峻な天神山の山頂一帯に築かれていた。 天正5年(1577)、浦上家の家臣であった宇喜多直家に攻められて落城し、全域炎上、廃城となる。 峰に沿って「下の段」、「西櫓台」、「三の丸(長さ26m、幅15m)」、「大手門」、「桜の馬場」、「帯曲輪」、「百貫井戸」、「長屋の段」、「二の丸 (長さ16m、幅10m)」、「空堀」、「本丸(長さ55m、最大幅17m)」、「広の段」、「天津社跡」、「飛騨の丸」、「飛騨の丸下段」、「堅堀」、「馬屋の段」、「南櫓台」、「南の段」、「堀切」の各施設が連なっていた。 また、山の稜線を断ち切って設けられた「堀切」をさらに南へ進むと、「太鼓丸」と呼ばれる石垣構築の出丸が守りを固めていた。 現存遺構は築城期のものと思われ、建造物は落城の際すべて焼失し礎石の一部がのこるのみであるものの、概ね良好な状態である。 南麓には武家屋敷とも呼ばれる根小屋、家臣岡本某の屋敷、木戸の遺構がある。 浦上与次郎は宗景の嫡男で、宇喜多直家に石山城(岡山城の前身)へ招待され、毒殺を謀られたという。 与次郎はその後天神山城へ帰るも、天正5年(1577)、29才で亡くなったとされる。 天神山城の出土品は佐伯ふる里会館(和気町岩戸/登録有形文化財)及び学び館サエスタに保存され、一部が展示公開されている。 (和気町HPより) 登城口は何ヶ所かあるが、比較的登城口まで行きやすい河本から登りました。
と言っても、最寄りのバス停である河本バス停へ行く備前片鉄バスの周匝行きは非常に本数が少ないので片道は徒歩覚悟です。 (結局行きもバスの待ち時間で片鉄廃線跡を歩いてしまった。) 佐伯町ふる里会館付近から天神山城を見る。 天石門別神社の脇に登城口。 急な坂を登って行きます。 約3分でもう岩場。 ロープにしがみついて登ります。 岩場を登ると視界が開けました。 和気町(南)の方を見る。 佐伯町(西)の方を見る。 その先は「武者落としの石畳」と呼ばれる岩場。 あまり脇見は出来ません。 (登るより下りる方が難しそう。) 登城口から約12分で見張り場。 覗き込んだら危険! まだか… 登城口から約20分で尾根道になりました。 少し安心。 登城口から約25分で天神地蔵。 良く見ないと解かりません。 歩き難い石ころの坂道。 登城口から約35分でようやく下の段が見えてきました。 佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。 「下の段から桜の馬場まで」。 下の段。 隠曲輪で西方より侵入して来た敵を上から攻撃する郭で、五十騎一備の桝形である。 下の段より西櫓台を見る。 西櫓台残存石垣。 西櫓台。 佐伯平野の見張りと本丸・竜ヶ鼻城との連絡場としての櫓台があった。 西櫓台から下の段を見下ろす。 西櫓台から三の丸を見る。 残存石垣。 三の丸虎口。 三の丸西端部の東屋。 西櫓台を見下ろす。 三の丸。 三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。 城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。 虎口は他の曲輪と比べて厳重を極めている。 三の丸から東を見る。 東へ進むと一段高い曲輪がある。 振り返る。 さらにもう一段高い曲輪が桜の馬場。 三の丸からは直接行けず、南側を伝って東へ進んで行く。 残存石垣。 帯曲輪。 帯状に細長い曲輪もしくは城のまわりを囲む曲輪をいう。 帯状にならなく短い曲輪を腰曲輪という。 帯曲輪から桜の馬場へ。 桜の馬場西端は鍛冶場。 城の拡張工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため鍛冶職人を常に置いていた。 鍛冶場から三の丸を見る。 鍛冶場から桜の馬場を見る。 桜の馬場。 百貫井戸道の碑。 大手門跡。 櫓門で四本柱の上に矢倉を築いたもの。 大手門外の帯曲輪は、百貫井戸の水の手曲輪がある。 大手門付近の石垣。 大手門の曲輪。 大手門から東へ下って行くと、長屋の段の下に百貫井戸があるらしい。 (佐伯町作成「天神山城跡」パンフレットより) 大手門付近の石垣を別角度で見る。 桜の馬場。 連郭式山城最大の曲輪、両側面に帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどが有る。 中央北側に大手門があり、西隅に鍛冶場があった。 (つづく) |
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