三日月の館

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佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。
「馬屋の段から前期天神山城軍用石まで」。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_122?1363702058_
馬屋の段。
本丸で通常使用する馬屋で、戦争の場合は三の丸に臨時的につくる。
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馬屋の段から飛騨の丸下を見る。
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北側斜面には竪堀がある。
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南櫓台を見る。
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南櫓台。
太鼓の丸と本丸との連絡と、城外と城内をみまもる目的がある。
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南櫓台から馬屋の段を見下ろす。
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南櫓台から南の段を見下ろす。
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南の段。
隠曲輪で敵兵が城内に侵入してきた際に堀切りの敵を上から攻撃する曲輪。
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堀切。
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堀切から南の段を見る。
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堀切を太鼓丸城側から見る。
山城に用いる空堀で、尾根を包丁で切った感じの空堀である。
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天神山城と前期天神山城(太鼓丸城)との境の堀切。
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空堀から天神山城を振り返る。
北へ下りて行くと水の手。
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太鼓丸城へ向かう。
亀の甲。
旧天神山城防衛の為に敵が塁をよじ登って来た時、石落し用としての石積の小山。
南側下には古井戸がある。
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先へ進む。
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下の石門。
旧天神山城防衛の為の門である。
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先へ進む。
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上の石門。
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先へ進む。
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大手門付近。
石垣かな?
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大手門。
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太鼓丸城狼煙台。
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ここにも鳥瞰図があります。
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太鼓丸城は、室町時代以前に日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享禄4年天神山出陣の かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋があり搦手門となる。
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木々が遮って見晴らしは良くない。
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軍用石へ向かう。
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石垣の虎口。
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反対側から。
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引いて見る。
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先へ進むと細長い曲輪がある。
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ここに軍用石。
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あちこちに転がっている。
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佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。
「前期天神山城軍用石から和気美しい森まで」。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_123?1363702058_
石門。
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本丸へ向かう。
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三角点。
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広い削平地に出た。
ここが本丸らしい…
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今まで整備された天神山城を経由して来たのでかなりの違和感。
堀切の案内板があるのでここまでが本丸かな?
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先へ進む。
南側に犬走と出丸があるのかな。
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郭。
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また堀切。
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郭を振り返る。
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だらだらとした緩やかな斜面。
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この辺りに家臣団の屋敷が建ち並んでいたのかな?
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何か防備施設がないのかと見回すと「土塁」の標記。
しかし、草茫々で土塁は解からなかった。
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根小屋。
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その先を進むと、
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和気美しい森に出た。
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和気美しい森側の登城口。
こちらから登城すると高低差がさほどないことになる。
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案内図には根小屋周辺に石積みがあるように描かれていた。
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引き返そうかと思ったが、こんなものがあったし…
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こんな標記もあったので…
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止めた。
城郭風のビジターセンター。
何故か競馬中継の放送が流れていた。
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天神山城を後にしました。
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まただらだらと下りて行きました。
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麓から遠くに日笠青山城が見えた。
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日笠から天神山城を見る。
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最初のダイナミックスさに比べ、最後は何だったのかなぁ〜
何とも不完全燃焼の天神山城でした。
【天神山城沿革】

浦上氏は室町時代、播磨・備前・美作を治めた守護大名赤松氏の守護代であった。
天神山城を築いた浦上宗景の父・村宗は主君である赤松義村を凌駕し、守護代から一躍戦国大名となった。
天文20年(1551)、村宗の嫡男浦上政宗とその弟の浦上宗景は備前に侵攻してきた尼子晴久の対応について恭順の意を示そうとする政宗方と撃退するべしという意見の宗景は激しく対立。
政宗は尼子と同盟を結び、それに対抗すべく宗景は安芸の毛利元就と同盟し周辺国衆にも政宗方に属する者、宗景方に属する者がそれぞれ現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。
その際に宗景は自らの新たな拠点として天神山に城を築く。
(普請に取りかかったのは天文23年(1554)正月前後)
これが長らく宗景が居城とする天神山城である。
ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。
また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。
有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。
永禄7年(1564)兄の政宗は室津城において、二男・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。
跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。
天正元年(1573)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。
しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。
天正2年(1574)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。
浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた(天神山城の戦い)。
天正3年(1575)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。
その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。
(とされていたが近年、本城から出土した瓦が天正8年(1580)ごろ姫路で焼かれたものと酷似しているという事で「落城後もしばらく宇喜多直家が使っていたのでは無いか?」という説も浮上している。)
(wikipediaより)

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