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場所 兵庫県姫路市青山西 永禄元年(1558)、浦上政宗などに擁立された赤松義祐は、父赤松晴政から赤松氏の家督と置塩城を政争によって奪い、晴政を追放。晴政は龍野赤松氏に匿われる。以後、置塩赤松氏と龍野赤松氏が対立。
永禄7年(1564)、浦上政宗の長男清宗と黒田職隆の娘(官兵衛の妹)との結婚式当日、赤松政秀が奇襲し、政宗父子を討ち取り、室山城を奪う。 永禄8年(1565)、 赤松晴政が死去し、赤松義祐と赤松政秀が一旦和睦。しかし、和睦後も赤松政秀は義祐の意に介さない独断行動を取り、勢力拡大を図る。 永禄11年(1568)9月 、赤松政秀は将軍足利義昭と結び付きを深めるべく、自身の娘を義昭付きの侍女として側仕えさせようと京へと向かわせる。守護職簒奪を危惧した赤松義祐は、備前の浦上宗景に援軍を要請し、赤松政秀を挟撃。 永禄12年(1569)、 挟撃にたまりかねた赤松政秀は、足利義昭に援軍を要請。義昭は織田信長に播磨出兵を促し、池田勝正を大将とする摂津衆に別所安治が加わった軍が播磨の義祐領に侵攻。 備前では宇喜多直家が反旗を翻し、鎮圧の為浦上宗景が帰国。 一転 して赤松政秀側が優位に立つ。赤松義祐は置塩城に籠城。 赤松政秀は、義祐方の小寺政職の家臣だった黒田職隆・孝高(後の官兵衛)の守る姫路城攻略のため進軍。 5月、青山(姫路市)で両軍が激突。 龍野赤松氏と姫路黒田氏の両軍が激突した青山古戦場へは、JR姫路駅前から神姫バス龍野行きに乗り青山坂下バス停下車。 目の前を通るのは国道2号線(西国街道)。 赤松政秀は西から青山峠を越えて攻めてきた。 バス亭から東へ、コンビニを通過したところを左折。 団地の奥へ進みます。 突き当たりに碑と説明版が建っています。 碑には、 正面…「史蹟 黒田官兵衛古戦場跡」 側面…「ここは戦国の世 永禄12年8月姫路城主黒田職隆の姫路軍と龍野城主赤松政秀の龍野軍が戦い 黒田職隆の嫡男黒田官兵衛孝高が龍野軍を敗り初陣を飾った古戦場である。」 と書かれています。 説明版。 【黒田官兵衛古戦場跡(青山合戦古戦場)】 黒田官兵衛孝高(1546〜1604)は、織豊期から江戸前期にかけての武将で出家剃髪し如水と号した。 豊臣秀吉・徳川家康に仕え豊前中津城主となる。 嫡子長政は福岡藩の祖。 永禄12年(1569)8月9日。 織田信長による播磨侵攻の最中、織田軍は龍野城主赤松政秀と手を組み、置塩城主赤松義祐とその有力被官であった御着城主小寺政職を挟撃する作戦に出た。 これにより政秀と義祐方が戦った(青山合戦)もので、結果は義祐方が勝利した。 この合戦で小寺(黒田)官兵衛が活躍し勝利をもたらしたとされる。 織田軍は、庄山城(姫路市飾東町)まで進軍していたが、この敗報に接するとともに備前から浦上宗景が赤松義祐支援のため播磨に出兵したこともあって撤退した。 青山合戦で黒田官兵衛が陣取った「青山」とは、現在の下手野の「船越山」のことで、当時は「瓦山」と呼ばれていたとされる。 平成23年11月 姫路市教育委員会 地図をズームアップ。 龍野赤松氏は3,000人の兵力で西から進軍。 一方、黒田軍は僅か300人の兵力だったので姫路城籠城は諦め、一か八か野戦での奇襲攻撃に打って出る。 何と、黒田官兵衛の活躍もあって龍野赤松氏を撃破したと云う。 黒田官兵衛が陣取ったとされる瓦山を見に行く。 国道2号線を東へ、姫路市街方向へ歩いていく。 夢前川の対岸にある低山の一つが船越山(瓦山)とか。 この戦いは、黒田官兵衛にとって初陣ではなく、初めて名を近隣に轟かせた戦いだったとも。 その後、赤松政秀はリベンジに燃え進軍、黒田軍は今度は土師山に陣取る。 しかし、またもや赤松政秀は黒田軍に敗れ撤退。 西播磨に勢力を張った龍野赤松氏であったが、一気に衰退することとなる。 いよいよ時は戦国時代ですね。 この頃は、まだ赤松氏の家臣として活躍する初々しい黒田官兵衛。 その後は、主家を凌ぎ豊臣秀吉をも脅かす存在に成長。 そして、来年には大河ドラマの主役にまで… (かつての主君であった赤松義祐なんて出て来ないだろうなぁ〜) (おまけ) バス停前に建つ石碑。
青山八景(季ヶ奥疎雁)。 「春秋の契りしられぬ季が奥の 幾千世かけてしのぶかりかね」 風光明媚な所だったんでしょうね。 |
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