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登城日 2012年12月15日(土)曇 難易度 ☆ 場所 兵庫県姫路市飾磨区妻鹿 天文14年(1543)、黒田職隆が御着城主小寺政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏を与えられ、播磨の姫路城の城代となる。 天文15年(1544)、嫡男孝高(のちの官兵衛・如水)誕生。 永禄5年(1562)、小寺孝高、初陣を飾る。 永禄7年(1564)、室津の浦上清宗に嫁いだ妹が、婚礼当日に赤松政秀に攻められ夫らとともに討たれる。 永禄10年(1567)、小寺職隆が息子の孝高に家督を譲り姫路城の南東に位置する妻鹿城に隠居。 永禄11年(1568)12月、長男松寿丸(後の長政)誕生。 永禄12年(1569)5月、龍野城主赤松政秀と黒田軍が青山(姫路市)で激突し、赤松政秀を打ち破る。 天正元年(1572)、この年に小寺職隆が新たに妻鹿城を築城し姫路城から隠居したとの説も。 天正3年(1575)、小寺氏内で軍議あり。孝高の進言で織田氏へ味方することとなる。 天正5年(1577)10月、毛利征伐のため羽柴秀吉が播磨に進軍。孝高は居城であった姫路城を秀吉に提供し、参謀として活躍するようになる。 天正6年(1579)、荒木村重謀反。説得に向かった孝高は有岡城に約1年間幽閉される。 天正8年(1580)、秀吉は姫路城を孝高へ返そうとするも、孝高は辞退し居城を妻鹿城(または山崎城とも)へ移す。 黒田官兵衛孝高が秀吉に姫路城を譲った後に居城としたとされる妻鹿城のある甲山。 最寄駅は山陽電鉄妻鹿駅。 妻鹿という地名は、このあたりに住んでいたつがいの鹿のうち、牡鹿が家島諸島へと渡り牝鹿が残ったことに由来すると云う。家島諸島に男鹿島(たんがじま)がある。 駅前の地図。 道標。 駅から約5分で麓。 登城口に荒神社。 境内に城址碑。 【誌】 妻鹿城即ち国府山城は、元弘の頃妻鹿孫三郎長宗が構居した処と伝えられ、その後二百数十年を経て天正元年(1572)に黒田職隆があらたに築城し、同13年職隆が没するまでその居城とした。 その間同8年には職隆の子官兵衛孝高も姫路城を羽柴秀吉にゆずり、妻鹿国府山城にいた。 太平記所載の豪力孫三郎や、秀吉の知将孝高が時勢の風雲をにらみながら、どのような夢をえがいたが幾百星霜を経た今日郷土人各位の豊かな想像をねがうものである。 本年1月本顕彰保存会が結成され、寄贈者両氏のご高助を賜わりその記念事業としてここに「妻鹿城址」の碑を建立するに至ったのである。 妻鹿城々主 元弘・文和の頃 妻鹿孫三郎長宗 妻鹿三郎四郎長定 嘉吉の頃 妻鹿孫次郎定祐 天正元年−13年 黒田美濃守職隆 天正8年・9年 黒田官兵衛孝高 黒田官兵衛ゆかりの目薬の木。 説明板。 階段を登る。 脇に絵図の説明板。 【功山城】 功山城は、市川左岸の甲山(標高102m)にあり、別称を妻鹿城・国府山城・甲山城・袴垂城ともいわれています。 初代城主は、薩摩氏長の子孫で「太平記」で有名な妻鹿孫三郎長宗です。 長宗は元弘の戦(1330年頃)赤松円心に属して功を立て、その功によって妻鹿地方を領有するようになり、ここ功山に城を築いたといわれています。 その後、姫路城内で生れた黒田官兵衛孝高の父職隆《もとたか》は、天正元年(1572)姫路城から功山城に移り居城としました。 また、天正8年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城としましたこれに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、功山城に移りました。 官兵衛孝高は、後に九州福岡に移り、黒田藩56万石の大大名の基礎を築いたことはあまりにも有名です。 天正13年(1585)職隆が没した後は、廃城になったようです。 なお職隆公の廟所は妻鹿町内にあり、町民に「筑前さん」と呼ばれ、親しまれています。 (贈)姫路南ライオンズクラブ 平成10年4月吉日 絵図を拡大。
境内脇に登城口。 石がごろごろ転がっている斜面。 石垣があったのかな。 矢印に沿って進む。 石垣? 石があると石垣に見えてしまう。 神社から10分ちょっと登ると削平地がある。 石がごろごろ。 石垣が崩れたものと思われる。 ちょっと登って絵図で言うと経塚跡下の鉄塔の辺り。 絵図に石垣があったので、ここを東へ。 鉄塔を過ぎる。 しかし、絵図とは違いどんどん下っていってしまう。 石垣は見つけられず引き返す。 戻って主郭へ向かう。 また鉄塔??? 絵図とは違い3本目。 解らなくなった。 この辺りに石垣へ行く道があるのかな? 少し登るとまた削平地。 曲輪跡の標記。 草茫々の削平地を進む。 石垣かと思ったら岩だった。 意外と広い曲輪。 岩を通過。 あちこちに曲輪跡の標記。 この辺りが主郭かな。 ここから見渡せる風景が絵図に書かれています。 城下を見渡す。 遠くに姫路城が見えた。 さらに進む。 これが磐座かな。 この辺りにも曲輪跡の標記。 その先はよく解らなかったので引き返しました。 曲輪跡を通って、 主郭を通過。 荒神社を通って、 階段を下りる。 降り積もるもみぢの葉。 妻鹿城を後にしました。 麓の飾磨高等学校。 城っぽいデザイン。 山電の線路方向へ南下。 住宅街に黒田職隆の墓がある。 黒田職隆廟所。 説明板。 来年は賑やかになりそうですね。 ところで、妻鹿城の別名は国府山城。 播磨国府と関係があるのでしょうか? 気になるところです。 |
城
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官兵衛のおじいちゃん目薬の商いしていたとは…驚き!
来年はここにも大河の幟がはためくのでしょうね♪
2013/6/9(日) 午前 7:59
るなさん
こんばんは
官兵衛の先祖は近江国黒田→備前福岡→姫路という説が司馬遼太郎によって広まり一般的ですが、最近では播磨の黒田庄出身で赤松氏ゆかりの一族ではないかという説もあるようです。
前者の方がロマンがありますが、後者の方が妥当性があるように思います。
2013/6/9(日) 午後 9:25