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登城日 2011年10月 1日(土)晴 難易度 ☆ 場所 兵庫県加古川市加古川町本町313 天正5年8月、羽柴秀吉北陸戦線から離陣。 10月、羽柴秀吉播磨入り。 加古川評定(毛利討伐の軍議)を開く。 最寄駅のJR加古川駅から徒歩15分ほどの所にあります。 国道2号線にある案内板が目印。 現在、城跡には称名寺が建っています。 山門前の橋。 掘跡ですかね? 右側。 左側。 山門。 山門前に説明板。 称名寺の文化財 【加古川城址】 城主は、糟谷助右衛門(内膳とも云)で、別所長治の幕下であった。 天正5年に羽柴藤吉郎秀吉が当城へきた時、はじめて糟谷の館に入って休息し、当地方の城主のことを詳しく尋ねた。 その後書写山に移ったが、糟谷助右衛門は、それ以来、秀吉につき従って小姓頭となった。 後年各所に転戦し、賤ヶ嶽一番槍に武名を挙げたという。 (播磨鑑) 加古川城 50間(約90m)四方 雁南庄加古川村 村より1丁(約110m)西の方とあり、称名寺の附近一帯が加古川城址である。 【石幢】 当寺の内庭に六角石幢がある。 凝灰岩(竜山石)製で室町時代初期に造られたものと思われる。 幢身高さ 66cm 径 27×18.5cm 【石棺】 出門前の碑の台石に、家型石棺の蓋が使用されている。 長さ 131cm 幅 73cm 厚さ 27cm 昭和62年3月 加古川市教育委員会 石棺。 境内の様子。 大いちょうが聳える。 本堂。 櫓のような不動堂。 奥に大師堂。 火伏八幡宮。 その前に七騎供養塔。 説明板。 【七騎供養塔】 この碑は、撰文も書も頼山陽の筆になるもので、文政3年に建立されたものです。 七騎とは、南北朝時代、正平5年、塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、足利尊氏の軍勢に追われ、米田町船頭の附近で追いつかれてしまいました。 その時、弟の六郎他郎党7人が主を討たせまいとして、この場所に踏み止まり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死してしまいました。 この七騎の塚が船頭附近にありましたが、洪水等で流されてしまい、今はもう残っていません。 この碑は、山田佐右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たさず亡くなり、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。 なお、古賀精里の文、頼山陽の父頼春水の書になる七騎塚の碑が、米田町船頭の大師堂の境内に建てられています。 昭和59年3月 加古川市文化財保護協会 特に城跡らしいものは見つけられず裏門から出る。 境外から櫓のような大師堂を見る。 堀が廻っているような。 こちらは石垣の石だったりして。 住宅地図を見ると、付近にも堀のような水路が描かれています。 こんな水路。 塀はニッケの工場関連のものらしい。 レンガ塀も。 こんな広い所があったり、 こんな狭い所があったり。 この細い道は掘跡かな。 などと想像しても結局良くわからず。 元来た道を駅に向かって帰りました。 加古川評定での羽柴秀吉と別所吉親との間に生じた不和がきっかけになり、翌年3月に三木合戦が開始される。
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遠征時もこうして細かく巡っていて凄いですね!
毎回感心させられます。結構予習されているのでしょうか。
加古川城は秀吉が入城したお城なのですね。
勉強させて頂きました。
2013/6/23(日) 午後 9:12
図書館へ行って予習する時もあります。
せっかく行くのでじっくり廻ります。
2013/6/26(水) 午後 10:29