【淡河城址】
文治元年(1185)淡河則長が淡河城を築城したと伝えられる。
天正7年(1579)豊臣秀吉に滅ぼされた後、慶長6年(1601)まで有馬氏の居城であった。
本丸、空濠、水濠の遺構が残っている。
・淡河氏墓碑
二の丸にあり、四方に仏像を刻んだ宝篋印塔や笠は珍しく、重要な石造美術品として注目されている。
【淡河城の変遷】
文治元年(1185)淡河則長が淡河城を築城したと伝えられる。
承久4年(1222)淡河庄は北条時房の所領となり、地頭職として北条一族の右近将監成正が派遣され、淡河氏を名乗った。
南北朝時代、淡河氏は後醍醐天皇の南朝方についたが、北朝軍の播磨守護職の赤松氏に取り囲まれ落城した。
しかし、その後も勢力を保ち、赤松一族から養子を迎え、赤松氏に属した。
嘉吉の乱(1441)のとき、赤松氏を滅亡させた但馬守山名持豊に降伏し、山名氏の支配下となった。
応仁元年(1467)に赤松政則によって赤松氏が再興され、応仁の乱に山名氏かっら播磨を奪回した際、淡河氏は赤松方に復帰し、おおいに活躍したと伝うわ(えら?)れる。
長享2年(1488)別所則治が三木城を築き、東播8郡24万石の守護代になったので、淡河氏も別所氏に属した。
天文23年(1554)有馬郡の有馬重則によって淡河城は落城したが、永禄元年(1558)に元にもどり、淡河氏最後の城主定範まで続いた。
やがて、天正6年(1578)三木城主別所長治が織田信長に背いたため、天正7年(1579)羽柴秀吉勢に取り囲まれたが、秀吉勢のなかに牝馬を放って混乱させ、秀吉勢を敗走させたことは有名である。
その後、一族郎党は三木城に入り、天正7年9月、秀吉の三木城攻めにより、淡河氏は滅亡した。
淡河城は、有馬法印則頼の居城となり、山崎の合戦、長久手の合戦の功により1万5千石に増封され、淡河町は、1万5千石の城下町として、おおいに栄えた。
淡河城〜どこかで聞いた名前だな〜と思ったら模擬櫓の存在
で調べた事がありました。模擬櫓の是非は別にして建物系好き
には印象深くなります。
城跡散策後の疲れた身体は甘いものを欲します^^
2013/6/30(日) 午後 5:27
模擬櫓は中に入れないようでした。
天守閣があったという城なので、櫓もあったのかもしれません。
2013/7/10(水) 午後 11:37