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(もどる) 本丸にある縄張図をもう一度。
北の丸へ登る。 北の丸跡。 櫓台と石垣? と思ったら岩だった。 櫓台(?)から北の丸を見る。 切岸。 下りて行く。 白水の井戸へ向かう。 滑りやすい斜面を慎重に下りて行く。 白水の井戸。 水は枯れていた。 白水の井戸から東側斜面を見下ろす。 また攀じ登る。 本丸北側の堀切。 天守の井戸へ。 本丸北側櫓台下。 崩れた石垣かな。 反対側にも。 天守の井戸。 覗いてみる。 やはり水は枯れていた。 山城でこんな立派な井戸は見たことないなぁ。 いよいよ本丸へ。 本丸北側の石垣。 本丸到着! 本丸北側の櫓台跡。 少し高くなっている。 櫓台跡から本丸を見る。 本丸南側へ。 城址碑と慰霊碑。 ここに縄張図も。 城址碑。 城址碑に書かれている内容を写したもの。 虎口へ。 石が散乱。 本丸を振り返る。 本丸1の門。 本丸1の門を振り返る。 1の門の先に2の門。 枡形になっている。 本丸2の門。 二の丸へ進む。 本丸を振り返る。 本丸と二の丸の間は土橋のような細長い地形。 下に帯郭。 帯郭へ下りてみる。 石垣発見! 戻って二の丸へ進む。 往時は石垣があったのだろう。 二の丸。 北側の土塁。 二の丸中央にある杉の木の井戸。 やはり枯れていた。 二の丸南端へ。 二の丸南端。 南端からの眺め。 二の丸を振り返る。 二の丸を後にする。 この辺りも石が散乱。 二の丸東側斜面。 石垣があったのだろう。 瓦葺の建物もあったのだろう。 二の丸を下りた所に出丸がある。 千鳥坂を下りて行く。 二の丸側の登城口。 交差点のすぐ北にある。 下りた所にある御津支所。 ここに金川陣屋があった。 南面に石垣が残る。 この辺りが城下町の中心だったのだろう。 心像図のような石垣と櫓の建つ近世城郭だったと連想出来る金川城でした。 |
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登城日 2013年 1月13日(日)曇 難易度 ☆ 場所 岡山市北区御津金川 【金川城(県下最大級の城)】 御津町金川に玉松城とよばれる金川城があることは良く知られていますが、御津町内にはこの他にも21もの山城が確認されていることをご存知ですか? 城といっても、岡山城や津山城のようなものではなく、大半は板べいで囲まれた掘立小屋の砦のようなものです。 これらの城跡は、中世、特に室町時代後半の戦国時代に築かれています。 全国の武将が勢力争いをしていた時代に、どうして御津町にこんなにも多くの山城が築かれたのでしょうか。 御津町には旭川が流れ、さらに宇甘川、新庄川が流れています。 今のように道路や鉄道が整備される前は、河川が最大の交通機関でした。 ですから、交通路である河川を押さえようと、武将たちは競って河川を見下ろす山々に山城を築きました。 河川の集まる御津町には、こうしてたくさんの山城が築かれたのです。 今回紹介する金川城は、県下最大級の規模で、旭川、宇甘川、新庄川の合流点を見下ろす臥龍山にあります。 暦応2年(1339)に松田元喬が築き、文明2年(1480)に松田元成が本拠を移してから、その後5代90年にわたり、備前国西半を治めていた松田氏の本拠地となりました。 永禄11年(1569)、宇喜多直家は松田元輝、元賢を攻め、松田氏を滅ぼしました。 そして、金川城を岡山平野の北の守とし、浮田春家を城主にしました。 江戸時代には日置氏が金川を治め、城を直しましたが、元和元年(1615)、一国一城令によりついに壊されました。 金川城は、ふもとから高さ約190mの山頂から5方向に平坦面が何段にもつらなる複合連郭式山城です。 本丸は78×35mのほぼ長方形で、周りには丸石を積んだ野面積みの石垣があります。 本丸の北には径4mの石積みの『天守の井戸』があります。 現在はかなり埋まっていますが、かつては、旭川につながっていたという伝説もあります。 井戸はこの他2つ確認されています。 また、土塁や堀切りも見られます。 本丸には、礎石や瓦片が残っていることから、天守閣とはいかないまでも、資料館に展示している軒瓦で飾られた瓦屋根の建物が建っていたようです。 このように金川城は大きさだけでなく、中世の城から近世の城へと変化する姿を残している貴重な城跡です。 遊歩道も整備されていますので、ぜひ一度地元の文化財を訊ねてみてはどうでしょうか。 (御津町郷土歴史資料館配布の資料より) 金川城へは、岡山駅からJR津山線に乗って行きます。
最寄駅は金川駅。 小さな駅ですが、快速「ことぶき」も停まります。 駅の北に聳える臥龍山に金川城がありました。 津山街道を北上。 宇甘川に架かる観波橋を渡る。 橋を渡った所の交差点にある東武藤家。 酒造業で栄えたそうです。 登城口は交差点をどちらに進んでもありますが、まずは資料館へ行くべく西へ左折。 途中にある七曲神社。 金川城主松田氏の氏神として、長禄元年(1457)ごろ神奈川県七曲山から金川に勧請したと云う。 ちょっと寄り道。 参道脇に建つ玉松城命名500年記念碑。 幕末に起きた神戸事件の責任をとって、伊藤博文等の目の前で割腹自決をしたと云う。 ここから階段を登ります。 七曲神社だけあって、参道はくねくね。 神門。 境内。 拝殿。 せっかくここまで登ったのですが、一旦下ります。 日蓮宗不受不施派祖山妙覚寺。 JR津山線のガードを潜る。 ガードを潜った所の南側に西武藤家。 今は御津町郷土歴史資料館となっています。 ここで情報収集。 金川城心像図。 慶長絵図の金川城。 宇喜多氏時代には櫓が建っていたようだ。 いよいよ金川城へ登城開始! JR津山線ガード脇に登城道があります。 難波抱節宅跡長屋門の前を通過。 その先に案内図があります。 案内図を拡大。 これとほぼ同じものが案内図脇の箱の中に入っています。 歩きやすい登城道。 約10分で道林寺跡。 道林寺跡からの眺め。 数段の削平地が連なる。 先へ進む。 右手が登城道。 登城道脇に残存石垣。 反対側から見る。 左手へ進むと少し大きな曲輪。 ここに日蓮宗の道場があったとか。 現在は南方(岡山市北区御津中山944)へ移転している。 削平地はさらに段々に連なる。 道林寺跡を見下ろす。 この辺りは道林寺丸。 道林寺丸の先端、本丸の下付近。 木戸から514m。 道林寺丸を振り返る。 道林寺丸の様子。 西の方を見る。 先へ進む。 振り返る。 堀切は無かったのだろうか? 斜面は竪堀っぽい地形だった。 本丸と北の丸の分岐点。 まず、北の丸へ進む。 堀切跡の先に土橋のような地形。 東側斜面に白水の井戸がある。 また分岐点。 金川城の北端にある空堀へ向かう。 堀切が2本連続。 堀切1本目。 その先にもう1本。 堀切2本目。 斜面には小さな竪堀も。 その先はこんな感じ。 戻って北の丸へ向かいます。 (つづく) |
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(もどる) 佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。
「馬屋の段から前期天神山城軍用石まで」。 本丸で通常使用する馬屋で、戦争の場合は三の丸に臨時的につくる。 馬屋の段から飛騨の丸下を見る。 北側斜面には竪堀がある。 南櫓台を見る。 南櫓台。 太鼓の丸と本丸との連絡と、城外と城内をみまもる目的がある。 南櫓台から馬屋の段を見下ろす。 南櫓台から南の段を見下ろす。 南の段。 隠曲輪で敵兵が城内に侵入してきた際に堀切りの敵を上から攻撃する曲輪。 堀切。 堀切から南の段を見る。 堀切を太鼓丸城側から見る。 山城に用いる空堀で、尾根を包丁で切った感じの空堀である。 天神山城と前期天神山城(太鼓丸城)との境の堀切。 空堀から天神山城を振り返る。 北へ下りて行くと水の手。 太鼓丸城へ向かう。 亀の甲。 旧天神山城防衛の為に敵が塁をよじ登って来た時、石落し用としての石積の小山。 南側下には古井戸がある。 先へ進む。 下の石門。 旧天神山城防衛の為の門である。 先へ進む。 上の石門。 先へ進む。 大手門付近。 石垣かな? 大手門。 太鼓丸城狼煙台。 ここにも鳥瞰図があります。 太鼓丸城は、室町時代以前に日笠青山城の出城として日笠氏が築城したもので、浦上宗景の享禄4年天神山出陣の かりとなり、天文時代より太鼓櫓として物見台の役目と家臣団集合の合図をした役目の櫓「人桝」と呼ばれ、東方に根小屋があり搦手門となる。 木々が遮って見晴らしは良くない。 軍用石へ向かう。 石垣の虎口。 反対側から。 引いて見る。 先へ進むと細長い曲輪がある。 ここに軍用石。 あちこちに転がっている。 佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。 「前期天神山城軍用石から和気美しい森まで」。 本丸へ向かう。 三角点。 広い削平地に出た。 ここが本丸らしい… 今まで整備された天神山城を経由して来たのでかなりの違和感。 堀切の案内板があるのでここまでが本丸かな? 先へ進む。 南側に犬走と出丸があるのかな。 郭。 また堀切。 郭を振り返る。 だらだらとした緩やかな斜面。 この辺りに家臣団の屋敷が建ち並んでいたのかな? 何か防備施設がないのかと見回すと「土塁」の標記。 しかし、草茫々で土塁は解からなかった。 根小屋。 その先を進むと、 和気美しい森に出た。 和気美しい森側の登城口。 こちらから登城すると高低差がさほどないことになる。 案内図には根小屋周辺に石積みがあるように描かれていた。 引き返そうかと思ったが、こんなものがあったし… こんな標記もあったので… 止めた。 城郭風のビジターセンター。 何故か競馬中継の放送が流れていた。 天神山城を後にしました。 まただらだらと下りて行きました。 麓から遠くに日笠青山城が見えた。 日笠から天神山城を見る。 最初のダイナミックスさに比べ、最後は何だったのかなぁ〜 何とも不完全燃焼の天神山城でした。 【天神山城沿革】 浦上氏は室町時代、播磨・備前・美作を治めた守護大名赤松氏の守護代であった。 天神山城を築いた浦上宗景の父・村宗は主君である赤松義村を凌駕し、守護代から一躍戦国大名となった。 天文20年(1551)、村宗の嫡男浦上政宗とその弟の浦上宗景は備前に侵攻してきた尼子晴久の対応について恭順の意を示そうとする政宗方と撃退するべしという意見の宗景は激しく対立。 政宗は尼子と同盟を結び、それに対抗すべく宗景は安芸の毛利元就と同盟し周辺国衆にも政宗方に属する者、宗景方に属する者がそれぞれ現れ備前の覇権を賭けて争う事になる。 その際に宗景は自らの新たな拠点として天神山に城を築く。 (普請に取りかかったのは天文23年(1554)正月前後) これが長らく宗景が居城とする天神山城である。 ここを拠点とした宗景は毛利の助力を得て各地で勝利を収め政宗の勢力を駆逐し備前の支配権を握る。 また、宗景はかつて浦上被官であった宇喜多能家の孫で放浪の身であった直家を召し抱えた。 有能な直家は頭角を現し宗景の片腕となって活躍し、その助力もあり宗景の備前・美作地域の支配は次第に強固なものになっていった。 永禄7年(1564)兄の政宗は室津城において、二男・清宗の婚礼の当日、赤松政秀の攻撃に遭い父子ともに戦死。 跡は政宗の三男の浦上誠宗が継いだが、3年後の永禄10年(1567)に宗景の手の者によって暗殺され室津の浦上惣領家は滅び、その領地を接収してさらに勢力を強めた。 天正元年(1573)宗景は西国に勢力を伸長してきた織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を認められた。 しかし、次第に家中での勢力を拡大していた宇喜多直家は、これに反対し安芸の毛利氏と結んだ。 天正2年(1574)直家は遂に主君宗景に反旗を翻した。 浦上政宗の三男誠宗の子で直家が岡山城に庇護していた浦上久松丸を奉じ、浦上宗家復興を名目に天神山城の宗景を攻めた(天神山城の戦い)。 天正3年(1575)家中で直家に内応するものもあり、遂に宗景は城を放棄し播磨へ遁走した。 その後、直家はこの城を焼き払ったと伝えられ、天神山城は廃城となった。 (とされていたが近年、本城から出土した瓦が天正8年(1580)ごろ姫路で焼かれたものと酷似しているという事で「落城後もしばらく宇喜多直家が使っていたのでは無いか?」という説も浮上している。) (wikipediaより) |
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(もどる) 佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。
「長屋の段から飛騨の段の下まで」。 桜の馬場から長屋の段を見る。 崩れた石垣。 長屋の段へ登る。 長屋の段虎口。 長屋の段。 倉庫があり、鉄砲櫓・食料櫓・武器櫓などがあった。 長屋の段、南面石垣。 二の丸へ登る。 二の丸虎口。 長屋の段を振り返る。 二の丸。 本丸を保護する、いわば第二の拠点である。 本丸へ向かう。 空堀。 水が無く、断面がV字形である。 本丸防衛の為の堀割である。 二の丸を振り返る。 本丸を見る。 空堀を振り返る。 本丸到着! 登城口から約1時間でした。 本丸。 連郭式山城の中心部で戦の場合城主の本陣となる。 城址碑は九州宮崎の後裔の方によって建てられた。 ここに鳥瞰図があります。 本丸の東側に天津社跡。 城には古来、守護神が付き物である。 天文2年本丸築城の時、山麓に遷宮した。 (現天石門別神社) 麓の天石門別神社へワープ!天石門別神社は河本登城口の横に鎮座。狛犬。 和気清麻呂。 本丸へ戻る。 本丸東側の虎口。 本丸の東側にある飛騨の丸へ通ずる。 また、城下の天瀬侍屋敷にも。 麓の天瀬侍屋敷へワープ!案内板。屋敷跡を囲む石垣。 下の段。 木戸があった。 中の段。 上の段へ。 上の段。 中の段を北へ。 ぐるみの段。 土壘の段。 ここからも本丸へ行けるらしいが… 挑戦しかけたが、足場が悪そうだったのですぐに断念。 本丸へ戻る。 天瀬侍屋敷から登って来た所。 本丸から飛騨の丸を見下ろす。 飛騨の丸。 宗景の重臣明石飛騨守景親の屋敷跡。 野面積の石垣は代表的な築郭法である。 本丸を振り返る。 飛騨の丸下。 飛騨の丸下から飛騨の丸を振り返ると石垣。 馬屋の段へ下りて行く。 (つづく) |
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登城日 2013年 1月12日(土)曇 難易度 ☆☆☆☆ 場所 岡山県和気郡和気町田土 【天神山城】 浦上宗景によって築城された連郭式山城である。 享禄4年・天文元年(1931)に宗景が入城して以降、数度の普請を行い完成した。 城の規模約5ha、標高 338m、比高310m。 吉井川が東に湾曲する辺り、田土(和気町田土)と岩戸の境にある急峻な天神山の山頂一帯に築かれていた。 天正5年(1577)、浦上家の家臣であった宇喜多直家に攻められて落城し、全域炎上、廃城となる。 峰に沿って「下の段」、「西櫓台」、「三の丸(長さ26m、幅15m)」、「大手門」、「桜の馬場」、「帯曲輪」、「百貫井戸」、「長屋の段」、「二の丸 (長さ16m、幅10m)」、「空堀」、「本丸(長さ55m、最大幅17m)」、「広の段」、「天津社跡」、「飛騨の丸」、「飛騨の丸下段」、「堅堀」、「馬屋の段」、「南櫓台」、「南の段」、「堀切」の各施設が連なっていた。 また、山の稜線を断ち切って設けられた「堀切」をさらに南へ進むと、「太鼓丸」と呼ばれる石垣構築の出丸が守りを固めていた。 現存遺構は築城期のものと思われ、建造物は落城の際すべて焼失し礎石の一部がのこるのみであるものの、概ね良好な状態である。 南麓には武家屋敷とも呼ばれる根小屋、家臣岡本某の屋敷、木戸の遺構がある。 浦上与次郎は宗景の嫡男で、宇喜多直家に石山城(岡山城の前身)へ招待され、毒殺を謀られたという。 与次郎はその後天神山城へ帰るも、天正5年(1577)、29才で亡くなったとされる。 天神山城の出土品は佐伯ふる里会館(和気町岩戸/登録有形文化財)及び学び館サエスタに保存され、一部が展示公開されている。 (和気町HPより) 登城口は何ヶ所かあるが、比較的登城口まで行きやすい河本から登りました。
と言っても、最寄りのバス停である河本バス停へ行く備前片鉄バスの周匝行きは非常に本数が少ないので片道は徒歩覚悟です。 (結局行きもバスの待ち時間で片鉄廃線跡を歩いてしまった。) 佐伯町ふる里会館付近から天神山城を見る。 天石門別神社の脇に登城口。 急な坂を登って行きます。 約3分でもう岩場。 ロープにしがみついて登ります。 岩場を登ると視界が開けました。 和気町(南)の方を見る。 佐伯町(西)の方を見る。 その先は「武者落としの石畳」と呼ばれる岩場。 あまり脇見は出来ません。 (登るより下りる方が難しそう。) 登城口から約12分で見張り場。 覗き込んだら危険! まだか… 登城口から約20分で尾根道になりました。 少し安心。 登城口から約25分で天神地蔵。 良く見ないと解かりません。 歩き難い石ころの坂道。 登城口から約35分でようやく下の段が見えてきました。 佐伯町作成「天神山城跡」パンフレット鳥瞰図。 「下の段から桜の馬場まで」。 下の段。 隠曲輪で西方より侵入して来た敵を上から攻撃する郭で、五十騎一備の桝形である。 下の段より西櫓台を見る。 西櫓台残存石垣。 西櫓台。 佐伯平野の見張りと本丸・竜ヶ鼻城との連絡場としての櫓台があった。 西櫓台から下の段を見下ろす。 西櫓台から三の丸を見る。 残存石垣。 三の丸虎口。 三の丸西端部の東屋。 西櫓台を見下ろす。 三の丸。 三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。 城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。 虎口は他の曲輪と比べて厳重を極めている。 三の丸から東を見る。 東へ進むと一段高い曲輪がある。 振り返る。 さらにもう一段高い曲輪が桜の馬場。 三の丸からは直接行けず、南側を伝って東へ進んで行く。 残存石垣。 帯曲輪。 帯状に細長い曲輪もしくは城のまわりを囲む曲輪をいう。 帯状にならなく短い曲輪を腰曲輪という。 帯曲輪から桜の馬場へ。 桜の馬場西端は鍛冶場。 城の拡張工事に必要な器具の製造・修理・武具・武器の確保のため鍛冶職人を常に置いていた。 鍛冶場から三の丸を見る。 鍛冶場から桜の馬場を見る。 桜の馬場。 百貫井戸道の碑。 大手門跡。 櫓門で四本柱の上に矢倉を築いたもの。 大手門外の帯曲輪は、百貫井戸の水の手曲輪がある。 大手門付近の石垣。 大手門の曲輪。 大手門から東へ下って行くと、長屋の段の下に百貫井戸があるらしい。 (佐伯町作成「天神山城跡」パンフレットより) 大手門付近の石垣を別角度で見る。 桜の馬場。 連郭式山城最大の曲輪、両側面に帯曲輪・腰曲輪・犬走りなどが有る。 中央北側に大手門があり、西隅に鍛冶場があった。 (つづく) |





