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(もどる) 空堀と土塁を見る。
登って行きます。 登っている途中に細い平坦地。 帯曲輪かな。 本丸到着! 今来た道を見下ろす。 本丸には軍用石が散らばる。 本丸の切岸。 本丸からの眺め。 木に阻まれて見晴らしは良くない。 本丸の中心に居館址の土壇がある。 またまた縄張図。 縄張図はここにある。 土壇の中心。 本丸北側を見る。 本丸は約500坪。 本丸南側を見る。 本丸の南側に若干の窪み。 ここにも井戸があったのかな。 本丸を振り返る。 二の丸に下りて行く。 二の丸。 二の丸には僅かながら土塁が見られた。 二の丸西側の切岸。 三の丸へ下りて行く。 三の丸の様子。 三の丸西側の切岸。 三の丸から二の丸を見る。 三の丸はかなり細長い曲輪で、南側半分は木が繁っていて歩きにくい。 三の丸の井戸跡。 三の丸西側に僅かに残る土塁。 大手門の方へ行ってみる。 池跡。 池跡の先を下って行くと、 大手門跡。 戻る。 三の丸西側下の馬場跡へ。 馬場跡。 細長い曲輪です。 三の丸の南端へ。 千貫井戸(底無し井戸)へ70mと書いてある。 行ってみたが道が解からなかった。 ここで千貫井戸経由で下りてしまわなくて良かった 馬場跡から第一見張所へ下りる途中、石垣発見! 櫓台だそうです。 第一見張所から登ってきた道を下りて行きました。 三石城さようなら。 永正14年(1517)成人し政務に参加するようになった播磨守護赤松義村は、2人の宿老(浦上村宗と小寺則職)と3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布いた。 この新体制に反発した重臣浦上村宗は、翌年三石城へ退去してしまった。 これに激怒した赤松義村は、小寺則職らとともに軍を率いて三石城を包囲。 しかし、村宗の重臣宇喜多能家(宇喜多直家の祖父)の活躍もあって討伐軍は壊滅。 逆に村宗の播磨侵攻を許し赤松義村の権威は失墜。 永正17年(1520)には村宗に捕らえられ、養母の洞松院の命令で隠居を余儀なくされた。 |
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登城日 2012年10月 6日(土)曇 難易度 ☆ 場所 岡山県備前市三石2670番地外 最寄駅は、山陽本線三石駅。 岡山県の東境に位置する三石駅は、隣りの兵庫県の西境に位置する上郡駅との間の本数が少なく、18きっぷの旅行者にとって難所となっている。 ホームから三石城。 真正面に聳える標高291mの天王山を見ただけで萎える。 せっかく来たので、気を取り直して三石城へ向かいましょう! 三石城への登城道は2つのルートがある。 町中から登る南側のきついルートと、北側の駐車場から登る比較的緩やかなルート。 車の人は北側から、徒歩の人は南側からかな? 駅から西へ。 橋を渡った所に一里塚。 ここから旧山陽道を進む。 三石には耐火煉瓦工場が建ち並ぶ。 地元産の蝋石が製鉄用の耐火煉瓦に好適であることから明治中期以降大いに発展した。 しかし、近年は資源の枯渇と需要の減少により衰退傾向とか。 (そういえば子供の頃、蝋石で塀や壁に落書きしましたが今も使われているのかな?) かつては人馬が行き交う交通の要衝だった旧山陽道。 現在はこの通り人も車も疎らな寂しい感じでした。 街道沿いにある三石明神社。 孕石が祀られている。 説明板。 三石明神社の先に登山口があります。 浜田屋さん脇です。 進むと崖に案内図が描かれています。 ここで案内図に目を奪われてそのまま進まないように。 反対側の民家の棚に「三石城の栞」が置かれています。 是非貰いましょう! 【三石城】 この城は鎌倉末期の元弘3年(1333)に、地頭の伊東大和二郎が築いたとされる。 播州白旗城の赤松氏が備前守護職に任ぜられると、浦上宗隆が守護代で三石城主となる。 後に、浦上氏は片上湾を扼する富田松山城を築き、日本一の窯業生産地(大甕・摺鉢などの生活用品)の積み出し港を押さえ、西播磨では瀬戸内海海運の要の室津をも支配した。 嘉吉元年(1441)に主家赤松満祐が将軍義教を誘殺した嘉吉の乱が起こり、結果守護職は山名氏に代わった。 応仁元年(1467)赤松政則が守護職に返り咲くと、三石城の浦上則宗が守護代に復帰した。 これらの変を通じて浦上氏の力は主家を凌ぐようになり室町第(幕府)造営料を浦上則宗が負担する迄になる。 文明16年(1484)正月、山名氏が松田元成らの軍勢と共に三石領に乱入したが、これを浦上基景・則国が撃破。 こののち浦上氏は赤松氏から独立の方向に動いた。 則宗の孫村宗の代になると主家赤松義村と対立、永正15年(1518)9月、義村は村宗の立て籠もる三石城を攻めるが大敗。 大永元年(1521)村宗は義村を幽閉して自害させ、戦国大名浦上村宗の登場となった。 村宗の子政宗は居城を室津の室山城とし、三石城には自分の弟宗景・国秀を置く。 村宗は細川高国を室山城に迎え、三好元長と組む赤松政村と覇を競う。 しかし三石城の宗景らが自立に動いたため、村宗と政宗は三石城を占拠。 宗景は天神山城、国秀は富田松山城に移り父子相争うことになる。 その後、村宗・政宗父子は龍野の赤松政秀に攻められて滅んだため、三石城は宗景の拠る天神山城の有力支城となった。 宗景は備前北部から美作に進出、尼子氏の南下に抗し独立した戦国大名に成長。 享禄4年(1531)宗景の備前支配は終わり三石城は廃城となった。 その後宗景の重臣宇喜多直家が天正元年(1573)岡山城で自立し毛利と結ぶと、宗景は織田信長と組んだ。 宇喜多勢は天正2年秋、天神山城の宗景を攻める。 信長は荒木村重・小寺政職に命じ援軍を出すが天神山城は天正4年9月に落城。 三石城は廃城となった後も織田氏・宇喜多氏によって城番が置かれた可能性が高い。 (「三石城の栞」より) 階段を登って登城口へ。
登城開始! 穴発見。 古墳? 約3分登って第二見張所へ。 見晴らしは良くない。 三石城説明板。 裏に俳句が書かれているが読み難い。 さらに登る。 約8分で息つぎ井戸。 井戸どこ? 約3分で三の丸直下の千貫井戸への分岐点。 少し行ってみたが、草茫々で断念。 すぐに第一見張所への分岐点。 第一見張所は細長い曲輪。 城下を見下ろす。 第一見張所から三石城を見上げる。 ここから本丸へは2つの道がある。 大手門経由の道と三の丸経由の道。 どちらも素晴らしい石垣があり見過ごせない。 まずは大手門経由の道へ。 あと100mなのになかなか辿りつかない… 約3分登ってようやく大手門の石垣が見えてきた。 縄張図。 大手門跡。 大手門を上から見る。 埋門だったらしい。 橋頭堡状に塁壁を張り出させた大手曲輪。 土塁の外側は石垣。 ここから池を通って三の丸へ行くのが通常ですが、そのまま直進して鴬丸(出丸)へ向かう。 急斜面の間の細い道を進むと、 空堀が現れる。 空堀外側の土塁。 石垣もあったのだろうか。 今来た道は間道(谷底道)だそうです。 鴬丸(出丸)への土橋? 土橋?の向こう側の堀切。 鴬丸(出丸へ)へ。 細い曲輪で木が生い茂り良く解らない。 先へ進むと駐車場へ到達。 車の人はこちらから入城することになる。 出丸の切岸。 「城址巡りの方は必ず矢印の方向に歩いて下さい」 戻って今度は本丸へ向かう。 (つづく) |
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場所 兵庫県揖保郡太子町糸井 桜井の清水と同じ太子町内にあります。 JR山陽本線網干駅から少し北へ行った住宅地の中に標識がたっています。 これが糸の井です。 残念ながら蓋がしてあって中の様子は解かりませんでした。 説明板。 【糸の井】 糸の井は、太子町糸井にあり、 鎌倉時代中頃にこのあたりに浄土宗をひろめた、 朝日山の顕実上人の硯水と伝えられている。 いろいろの木の葉流るる糸の井は ゆききの人のしるしとぞきく 顕実上人 また飲めなかった 結局、播磨十水は一滴も飲めませんでした。 |
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場所 兵庫県姫路市本町68番地 姫路城内で小野江清水とは反対側の清水門にあります。 近年復元された鷺の清水。 この湧水があることから清水門と命名された。 説明板。 【鷺の清水】 この石組井戸は、古くから名水として知られた「鷺の清水」の遺構である。 宝暦12年(1762)の地誌『播磨鑑』によれば、「鷺の清水」は、赤松義村(1521没)の時代から、播磨十水の一つに数えられており、風味がよく茶の湯にも利用されていたという。 ただこの場所は清水門の外門の内側に位置しており、一般の人は水が汲めないので、船場川に流れ落ちる湧水で茶をたてたといわれている。 井戸の規模は、東西2.8m、南北6m、深さ2.5mで、さらに井戸底面の中央に直接1.3m、深さ2.4mの木枠の井戸が設けられている。 この遺構は、由来・形状に特徴があり、往時の姿が概ね復元できたことから、姫路城跡でも最も重要な遺構の一つである。 井戸復元図。 覗いてみる。 江戸時代のある時、藩主が江戸城で鷺の清水でお茶をたてたらおいしいと自慢したところ、それなら京の名水「柳の水」と比べてみようということになったが、何れも区別なく味がよかったという言い伝えが残っている。 赤松義村の時代には今のような姫路城は無かったのですが、姫山周辺で播磨十水が2つ選定されるとは、余程水の豊かな場所だったんですね。 (しかし、この鷺の清水も加えると11ヶ所になってしますのですが…) |





