三日月の館

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場所 兵庫県加西市福居町328

赤松家中興の英主最期の地

長円寺の境内にあります。

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福岡合戦の時、真弓峠において山名勢に大敗を喫し一時は堺に出奔した赤松政則であったが、長享2年(1488)には山名勢を駆逐して、播磨・備前・美作の領国支配体制を確立した。
延徳3年(1491)8月、将軍足利義材が六角氏を討つために近江へ出陣した時、政則もこれに従い、11月には軍奉行となり、斯波義寛と共に六角政綱を攻め、戦功をたてた。
明応5年(1496)閏2月29日には従三位に叙位される。
将軍・足利一門以外の武家の三位叙位は、赤松政則が初であった。
3月1日に参内し、3月10日には御酒を献上した。
だがわずか2ヵ月後の4月25日、播磨加西郡坂田の長円寺で病気により急死してしまった。

赤松政則最期の地である長円寺へは、JR加古川線または神戸電鉄粟生駅で北条鉄道に乗り替えて行きます。
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終点の北条町下車。
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姫路駅行きの神姫バスに乗って坂元下車。
北へ進み、兵庫県道410号中寺北条線を西へ。
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「→長円寺」の標識の所で右折。
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のどかな参道。
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想像よりもかなり小さな長円寺。
ここが赤松政則最期の地とは。
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山門を入る。
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本堂の裏手の道を進む。
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墓地が見えてきました。
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これかな?
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と、思ったら奥のこちらだった。
従三位の墓にしては小さい…
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享年42歳。
刀工としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、家臣に下賜した幾つかの名刀が残っている。
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あまりにも早すぎる死だった。
赤松政則によって奇跡的に復活した赤松家であったが、この後、乱世に波に飲み込まれ徐々に消えて行くことになる。

福岡城(備前国)

登城日 2012年10月 6日(土)曇
難易度 ☆
場所  岡山県瀬戸内市長船町福岡49-1

福岡合戦の舞台

福岡県名の由来の地です。

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【備前福岡あれこれ】
赤穂線長船駅から西へ1km。
また岡山市の中心から国道2号線を東へ20km余り、吉井川にかかる備前大橋から東側の堤防を、右手にゴルフ場を眺めながら1kmばかり下ると不思議な町並みが目に入る。
駅もなく街道からもはずれながら密集した人家が200ばかり、その中を真直に走る道路の広さにまず驚かされる。
南北に2本、東西に4本、その間を結ぶ狭い道も基盤の目のように整然としていて都ふうな町をしのばせる。
この集落−福岡の家並みは古い歴史の残照であり、それ故にこそ司馬遼太郎の「播磨灘物語」の冒頭の舞台となる。
『福岡とは山陽道の沿道にあたり、この時代中国筋における第一等の都会であったろう。村のそばに吉井川が流れていて水運がいいだけでなく、まわりに美田が広がり、気候は温暖で物成りがよく、餓えということを知らぬ土地だという。』
物語の中のこの時代とは、室町時代の末である。
山陽道と吉井川の交わるこの一帯は、物資の集散地として大変にぎわっていた。
時代をさらにさかのぼると、鎌倉中期の「一遍聖絵」に「福岡の市」としてその繁栄が描かれている。
布教のため全国を行脚した一遍上人の絵伝(絵巻物にした伝記)は、今も京都の歓喜光寺に国宝として保存されているが、その中の「福岡の市」のようすは、中学校の教科書に載るほど貴重で当時の市の有様を知るよすがになっている。
織物、米、魚、伊部焼(備前焼)の壺を売る商人、市女笠の女、鳥帽子狩衣の武士、市に群がる男女など当時の民衆の生活や、その背景となる風景が美しい詩情をたたえて描き出されている。
また室町初期、武将として、歌人として有名だった九州探題の今川貞世(了俊)は、その道中記「道ゆきぶり」に、『家ども軒を並べて民のかまどにぎはいつつ、まことに名にしおひたり』と記しており福岡の繁栄ぶりがうかがわれる。 
往時の福岡の繁栄を現況から想像することはできないが、わずかに「七小路」「七井戸」と語り伝えられたものに、その昔整然と区割された町であったことをしのばせるものがある。
東小路、西小路、市場小路、上小路、下小路、後小路、横小路、その他横町、殿町、茶屋市場などという呼び名がそれである。
殿町というのは武士の居住地であったと思われ、市場小路、茶屋市場は「福岡の市」と関係があると思われる。
農村にしてはあまりに趣のある街作り、白壁や格子窓が残る家並み。
中世の福岡千軒から徳川の幕藩時代を経て今の小集落へ。
その接点はいつであり、どんな背景があったのか。
現在の福岡は昔の大福岡の一部がそのまま残ったものか。
宇喜多氏による岡山城下町作りへの多くの商人の引き抜きや、大洪水による荒廃のあと新たにつくり直されたものなのか。
疑問に答えてくれるものは今は残っていない。
そのあたりは謎につつまれたままである。
(現地パンフレットより)

備前福岡へは、岡山駅からJR赤穂線に乗って行きます。
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吉井川を渡る。
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最寄駅長船駅下車。
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ここからは交通手段が無いのでレンタサイクルを借りるとよい。
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駅の北側の踏切を渡って西へ進む。
往時はこの辺りを吉井川が流れていたのではないだろうか。
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約10分で福岡の町が見えてきます。
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案内図。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_36?1351429541_
福岡城を目指します。
河川敷にある長船カントリークラブゴルフ場。
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ゴルフ場の中にある丘が福岡城跡と言われています。
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ゴルフ場を見下ろす土手沿いに碑が建っています。
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まずは、フロントにて入場の許可を貰いましょう!
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プレーの邪魔にならないように気をつけて福岡城跡へ。
北から見る。
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西から見る。
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南側に城址碑。
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説明板。
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本丸跡へ登る。
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本丸跡に鎮座する稲荷神社。
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神社の裏を覗く。
丘は粘板岩から出来ている。
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とても本丸跡とは思えない小さな丘でした。
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ここは、渋染一揆結集の地でもあります。
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説明板。
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福岡城跡の丘を後にします。
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備前大橋から見た吉井川。
左側のこんもりした森が福岡城跡の丘。
右側の小さな山が本城山。
本城山が本丸跡とも言われています。
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本城山へ行ってみる。
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吉井川の左岸は岡山市。
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登城口。
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途中、お墓のある小さな平坦地が段々に連なっていました。
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頂上の平坦地。
確かにこちらの方が城跡っぽい。
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残念ながら、大永年間(1521〜1528)の吉井川の大洪水で福岡城と福岡の町が流されてしまったと云う。
どちらが本当の城跡なのかは謎のままです。
【福岡合戦】
文明15年(1483)7月、山名政豊と結んだ備前の松田元成が赤松家の守護所である備前福岡城を急襲した。
この際に赤松政秀と浦上則景を福岡城救援に派遣するも、赤松政則自身は叛乱の根を一挙に絶とうと山名氏の本国である但馬へ進軍。
同年12月25日に赤松政則は真弓峠にて山名軍に大敗して、逆に山名氏の播磨侵攻を許してしまった。
これによって福岡城は奪われ、播磨・備前・美作の三ヶ国における赤松家の威信は大きく揺らいだ。
赤松政則は堺へ出奔、重臣の浦上則宗や小寺則職らは、代わりに有馬澄則を新たな君主に擁立すべく将軍足利義政に働き掛けるに至る。
赤松氏領国は大混乱に陥るも、最終的には赤松政則が幕府の援助を受けて復帰、長享2年(1588)には福岡城が奪還され、播磨に侵攻していた山名軍も領国へと引き上げ、足掛け6年に及んだ山名家のとの戦いが終結した。

(おまけ)

僅かに残る福岡の町へ。
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まずは郷土館で勉強しようと思ったが閉まっていた
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福岡の市跡。
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往時は大変賑わったと云う。
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街中には七つ井戸があった。
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妙興寺へ。
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沿革。
備前国主赤松則興の追善供養の為に応永10年(1403)に建立。
赤松則興って誰?
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_37?1351429541_
山門。
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境内の様子。
御朱印は事前に書いた紙だった。
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奥の墓地にある宇喜多能家の墓。
宇喜多能家は備前守護代浦上氏の家臣で、宇喜多直家の父。
周りには阿部家の墓もありました。
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説明板。
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墓地の奥には、黒田墓所。
黒田官兵衛孝高の祖先が眠る。
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説明板。
九州の「福岡」は、黒田氏の由緒の地である備前福岡に因むと云う。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_38?1351429541_
再来年の大河ドラマは「軍師官兵衛」。
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少しは賑わいを取り戻しそうですね。
場所 京都市左京区南禅寺福地町86-11

応仁の乱における西軍の総大将の墓所です。

詳しい地図で見る

山名持豊(宗全)は、室町時代の武将、守護大名。
家系は新田氏庶流の山名氏。
室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。
但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。
山名時熙の三男で、母は山名氏清の娘。
諱は持豊で、宗全は出家後の法名。
応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。
(wikipediaより抜粋)

山名宗全の墓所は、南禅寺の塔頭真乗院にある。
南禅寺の中門を潜る。
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中門をから入ってすぐ右手に真乗院があります。
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境内奥にある山名宗全の墓所です。
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山名宗全は、文明5年(1473)3月18日(4月15日)に死去。
その2ヶ月後の5月11日(6月6日)に東軍の総大将の細川勝元が相次いで死去。
応仁の乱は終息に向かうこととなった。
 
京の名所旧跡(目次)へ戻る
所在地  京都市東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595
山号   大椿山
宗派   臨済宗建仁寺派
本尊   薬師如来
創建   伝・延暦年間(782〜805)
開基   伝・慶俊僧都

赤松政則ゆかりの寺

この世とあの世の境にある寺です。

詳しい地図で見る

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【六道珍皇寺】

大椿山(たいちんざん)と号する建仁寺の塔頭で「六道さん」として親しまれている。
この付近は、かつて死者を鳥辺野(東山区南部の阿弥陀ヶ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野に至る丘陵地)へ葬送する際の野辺送りの場所で、「六道の辻」と呼ばれ、この世とあの世の境といわれていた。
六道とは、仏教で、すべての生き物が生前の善悪の行いによって必ず行くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六種の冥界のことで、本堂の裏にある井戸は、昼は嵯峨天皇、夜は閻魔大王に仕えた小野篁が冥土へ通った入口であったという伝説が残されている。
創建についての詳細は明らかではないが、平安・鎌倉時代には東寺に属して隆盛し、その後衰退した。
室町前期の正平年間(1346-70)に建仁寺の僧、良聡によって再興され、臨済宗に改められた。
薬師堂に本尊の木造薬師如来坐像(重要文化財)を安置し、閻魔堂に小野篁の作と伝わる閻魔大王像と等身大の小野篁像が祀られている。
毎年8月7日から10日までの4日間は「六道まいり」が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す「迎え鐘」を撞く参拝者でにぎわう。

京都市

JR京都駅から市バスに乗って清水道バス停下車。
東大路通と八坂通が交わる交差点に「←六道まいり 六道珍皇寺」と書いてあるのですが…
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八坂道を行くと、開いていない北門へ行ってしまう。
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よって、一筋南の清水道交差点を西へ。
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清水道の北側に山門があります。
(ややこしい…)
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愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや
実に恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを
(謡曲「熊野(ゆや)清水詣」より)
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山門前には「六道の辻」の碑。
この世とあの世の境(接点)の辻が、古来よりこのあたりであるといわれ、冥界への入口とも信じられてきた。
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遣隋使を務めた小野妹子の末裔である平安時代の公卿、小野篁(たかむら)が夜毎冥府通いのため、当寺の本堂裏庭にある井戸をその入口に使っていたとの伝説が残る。
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山門を入って右側に薬師堂。
国の重要文化財である木造薬師如来坐像を安置。
(通常非公開)
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隣りが閻魔堂(篁堂)。
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右側に等身大の小野篁立像(江戸時代作)。
「わたの原 八十志摩かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり船」
(小倉百人一首より)
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左側に閻魔大王坐像(小野篁作)。
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さらに北隣りに迎え鐘。
この鐘は当寺の開基である慶俊僧都が造らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くにあたり、この鐘を3年のあいだ地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ったが、留守を守る寺僧は待ちきれず、1年半ばかりたって掘り出して鐘をついたところ、はるかに唐国にある僧都のところまで聞こえたので、僧都は「あの鐘は3年間地中に埋めておけば、その後は人手を要せずして6時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」といって大変残念がったという。
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奥に東門。
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外側から見る。
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迎え鐘の反対側に水子地蔵尊。
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正面に本堂。
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本堂東側の庭。
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庭に小野篁が冥府への入口として使っていたという井戸がある。
(出口は大覚寺門前にある)
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本堂裏の北門への道。
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本堂内部の様子。
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本堂には、寺宝珍皇寺参詣曼陀羅図がある。
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そして…
右側は、赤松政則自筆の扁額「大昌院」。
左側は、江戸時代に日光奉行赤松信濃守則泰が先祖の供養として奉納した刀「上総介藤原兼重」。
ともに寺宝なので撮影はここまで。
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赤松政則と六道珍皇寺との関係は父時勝に遡る。
嘉吉の乱で赤松家が一旦滅亡した折、赤松満祐の甥時勝が建仁寺の塔頭大昌院のもとに預けられ出家を遂げたことにより一命をとり止めた。
その後、赤松家を再興した赤松政則が父時勝の17回忌を大昌院で営み、応仁・文明の乱で荒廃していた大昌院を再興するとともに、自ら額字を書いたと云う。
その後、明治7年に六道珍皇寺が大昌院に吸収され、同26年に大昌院が六道珍皇寺へ名を戻し、寺宝として現在に伝わる。
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これら寺宝は通常非公開ですが、極たまに見ることが出来ます。
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さて、毎年8月7日から10日までの4日間「六道まいり」が行われる。
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山門前の清水道は歩行者天国となる。
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屋台で賑わう。
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山門から入る。
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通常非公開の木造薬師如来坐像を拝む。
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参詣順序に従い進みます。
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高野槙を買う。
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水塔婆に戒名を書いてもらい、
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迎え鐘を撞く。
綱を引いて鳴らすのが特徴です。
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水塔婆を線香で清め、
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地蔵尊霊前にて水回向の後その場に納めて置く。
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ついでに隣りに置いてある通常非公開の寺宝「熊野観心十界図」を見る。
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本堂前の「三界萬霊供養塔」。
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その裏は群霊塔。
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東門から出る。
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最後に御朱印。
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「六道さん」の名で親しまれる六道珍皇寺でした。


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