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登城日 2004年12月24日(金)曇 難易度 ☆ 場所 東京県世田谷区奥沢7-41-3 室町から戦国時代にかけて、世田谷区・目黒区一帯は、世田谷城主吉良氏の領地でした。 その配下である大平出羽守の居城として、奥沢城がありました。 現在、その城跡は九品仏浄真寺となっています。 詳しい地図で見る 仁王門。 鐘楼。 三仏堂。 本堂。 仏足石。 奥沢城の凄いところは、坪単価300万円以上の土地に奇跡的に残っていることです。 三方を高い土塁で囲まれています。 写真が下手で残念です。 是非とも現地で見ていただきたいです。 詳しくは、こちらのホームページに書いてあります。 (鉄道の好きな方は新奥沢線の廃線のことも書いてあります。) http://www.okusawa.jp/sinkoukai/index.htm この城には悲しい伝説が残っています。 鷺草伝説(さぎそうでんせつ) 世はまさに戦国時代。各地の大名が兵を起こし、群雄割拠の様相を呈していたころのこと。 世田谷から衾村、碑文谷郷一帯(今の都立大学駅からダイエー碑文谷店付近一帯)は、世田谷城主吉良頼康の支配下にあった。 吉良頼康は、奥沢城主大平出羽守の娘常盤(ときわ)姫を側室として迎えた。やがて、常盤姫は子をみごもったため、頼康はことのほか常盤姫をいつくしむようになった。 血筋を絶やしてはならない大名のしきたりに従って、頼康には、常盤姫のほかに12人の側室がいた。 彼女たちは、頼康を一人占めにする常盤姫をねたみ、「常盤様のお子は、殿のお子かどうか疑わしい」などと、まことしやかに頼康につげ口し、常盤姫への愛情を妨げようとたくらんだ。 常盤姫の悪いうわさを、頼康は否定しながらも、心の中にはいつの間にかどす黒い疑惑の霧がたち込めていった。自然と常盤姫へも冷たい仕打ちをするようになった。 とりなしてくれる者も無く、悲しみに暮れた常盤は、「いっそ死んで、身の潔白の証しにしよう」とまで思いつめた。奥沢城の父にあてて遺書をしたためると、小さいころからかわいがって、輿入れの際にも一緒に連れて来た、1羽の白鷺の足に結びつけ、奥沢の方角へ放った。 主人のただならぬ様子をさとったかのように、白鷺は奥沢城目指してまっしぐらに飛び去った。ちょうどそのころ、衾村で狩りをしていた頼康は、この白鷺を見つけ射落としてしまった。みると、足に何やら結びつけてある。不審に思って開いてみると、姫から父へ覚悟の自殺を報じた文であった。 驚いた頼康は、急ぎ城に帰ったが、時すでに遅く常盤姫は自害し果てた後であった。傍らには、死産の男の子の姿があった。 疑いは晴れたが、もう常盤姫も子も戻っては来ない。深く後悔した頼康は、せめてもの償いにふたりの霊を慰めようと、領内の駒留八幡宮に若宮と弁財天を祀ったのである。 一方、使命半ばにして倒れた白鷺は、よほど無念だったのか、その地に鷺の飛翔する姿の花を咲かせる草(鷺草)になったという。 (目黒区ホームページより)イメージではおしゃれですが、実際はごちゃごちゃしている自由が丘の街も、昔は一面、鷺草が咲き誇っていたと思うと…。 |
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2008年06月27日
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