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所在地 愛知県知多郡美浜町野間東畠ケ50番地 山号 鶴林山(かくりんざん) 宗派 真言宗豊山派 本尊 阿弥陀如来 創建 伝・天武天皇時代(673〜686) 開基 伝・役小角
駅は無人駅で駅前には何も無い。 この地が源頼朝の父、義朝最期の地である。 平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた源義朝は、随行していた鎌田政清の舅であった長田忠致の許に身を寄せた。 屋敷跡が野間駅から西へ少し歩いたところにある。 長田忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿で入浴中の義朝を欺し討つ。 湯殿は野間駅の東にある法山寺境内にあります。 法山寺。 法山寺本堂。 その先に湯殿跡がありました。 説明板をアップ。 源義朝像。 法山寺への道の途中には乱橋と呼ばれる橋があります。 乱橋跡の碑。 説明板をアップ。 渋谷金王丸とは、東京の渋谷警察署裏の金王八幡神社が城跡とされる渋谷城主ですね。 その後、長田忠致・景致父子は源頼朝によって磔にされたという。 磔の松が密蔵院の裏山に残る。 密蔵院。 密蔵院の説明板。 密蔵院本堂。 裏山の磔の松遠景。 磔の松へは長田屋敷跡の前から進む。 磔の松。 その説明板。 源義朝は野間大坊の境内に葬られている。 野間大坊は、正式には鶴林山大御堂寺といいます。 その歴史は古く天武天皇の時代に始まり聖武天皇(723〜749)の時、行基菩薩が中興します。 後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。 承暦年間(1077〜1081)に白河天皇の勅願寺として、大御堂寺と称せられました。 後に源頼朝公が亡き父義朝公の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王・毘 沙門天を奉安され、七堂伽藍を造営します。 そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。 現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。 (野間大坊説明書より)野間大坊案内図。 源義朝公御廟。 説明板。 源義朝の墓。 源義朝は謀殺される時に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされる。 その故事にならい、木太刀に願をこめて奉納すると願が適うならわしが広まった。 奥には、何故か平清盛の継母で頼朝の助命をしたという池ノ禅尼の塚がある。 横には、鎌田政清(政家)夫妻の墓。 野間大坊大御堂。 大御堂の前には源頼朝建立の大門が建つ。 その横には、源義朝の首級を洗ったという血の池がある。 平康頼の墓。 源義朝の墓を再建した人。 鐘楼堂。 梵鐘は国重要文化財。 悠紀殿。 昭和天皇の即位の礼の時に京都御所内に建てられた建物の一部を移築したもの。 野間大坊本殿。 ここで「源義朝公最期の絵解」を聞くことが出来る。(5名以内は一人3,000円。6名以上になれば一人500円。要予約) 野間大坊本殿は、伏見桃山城の客殿の一部を寛永年間(1624〜1643)に移築したものという。 また、本殿の前には四国八十八ヶ所の砂が埋まっている。 四国八十八ヶ所巡りの出来ない人はここで。 さて、源義朝の墓の隣にはもう一つの墓があります。 織田信孝の墓です。 秀吉との争いに敗れた信孝はここに送られ、近くの安養院の一室で自害したという。 説明板。 自刀の間は解らなかった。 何故この地が歴史の舞台となったのか、良く解らない程、今は閑散とした地でした。 しかし、どの寺も立派な寺でした。 |
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2009年03月01日
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