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場所 静岡県磐田市見付3884-10
実祖父の赤松家は、播磨の名族赤松氏の裔にして円尾を姓として代々網干新在家で干鰯問屋を営み廻船業を兼ね、龍野藩の廻米御用を勤め苗字帯刀を許され祖先の赤松姓に復したが、赤松良則の代で家業が傾き、実父赤松雄之進(後の吉沢政範)は吉沢家へ婿養子となって出世し、1847年その次男である赤松則良に赤松家を継がせた。 安政4年(1857)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。 万延元年(1860)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米する。(艦長勝海舟) 文久元年(1861)に幕府よりアメリカ留学生として選任される。しかし南北戦争勃発のためオランダ留学生に変更となり、内田恒次郎・榎本釜次郎・沢太郎左衛門らと共に、文久2年(1862年)長崎を出航してオランダへ向かう。 文久3年(1863)4月にオランダ・ロッテルダムに到着。開陽丸建造と同時進行で、運用術、砲術、造船学などを学ぶ。 慶応2年(1866)に完成した開陽丸に乗船して帰国する榎本釜次郎ら、同行のオランダ留学生達と別れてオランダへ残留、留学を継続する。 慶応4年(1868)大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着く。同年5月17日、横浜港へ帰着した。 戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流して江戸脱走を試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移る。 静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くし、その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。主船寮長官、横須賀造船所長、海軍造船会議議長などの要職を歴任した。 1887年に男爵を叙爵。貴族院議員もつとめた。 明治26年に予備役となったのち、見付(現静岡県磐田市)へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家(静岡県・磐田市指定文化財)を建造する。 (一部wikipediaより) 場所は、JR磐田駅から北へ徒歩30分くらいです。 バスは、遠鉄バス「二俣山東行き」に乗車し、河原町北バス亭下車徒歩1分ですが、本数が極めて少ないです。 (地図は拡大してください。) 旧赤松家の門。 近づいてみる。 現在補修工事中でした。 門番所がたくさんありますね。 説明板。 レンガ積みと三和土積みが併用されています。 別角度。 中に入る。 無料です。 案内図。 門番所を裏から。 中を覗いてみる。 赤松則良。 説明板。 家系図。 長女登志子の夫は
長男は東京製綱社長を勤め、孫は磐田市長を務めた。 名家ですね。 赤松邸は、昔はこんな感じだったそうです。 家の前を光明電鉄が走っていました。 今は母屋が無くなっており、内蔵が展示室となっています。 水屋。 説明板。 土蔵。 説明板。 何故、祖先が播磨で江戸生まれの赤松則良が磐田の見付に居を構えたかというと、東海道を行き来している時にこのあたりが地盤が強く洪水が無い地であることを知ったこと、徳川慶喜を慕い幕臣が静岡へ移住するのに従ったこと、親族の宮崎氏が先に見付に居住したこと等が言われています。 その後。明治45年に上京し、長男の家に同居。 大正9年に亡くなり、墓は東京駒込吉祥寺にあるという。 |
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2009年03月17日
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