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登城日 1回目 2004年 5月 2日(日)曇 難易度 ☆ 場所 京都府京都市伏見区淀本町 歴史的に有名な城の筈ですが、結構見落としてしまう。 駅から近過ぎるのです。 というか、京阪淀駅が天守台の横にあるのです。 上から見ると穴蔵式の天守台がはっきり解りますね。 淀城の由来 徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿舎としている。 寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1725)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。 江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二カ所に取り付けられていた。 淀城とその城下町の盛観は延享五年(1748)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。 昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。 なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなくこの位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。 (現地案内板)説明板。 駅を降りると天守台がすぐ目の前に。 う〜ん、自転車邪魔だなぁ。 天守台はちょっと変わった形をしています。 淀城の天守は、当初は伏見城の天守が移築する計画になっていたため、それにあわせて天守台を作事していたが、急遽伏見城の天守は二条城に移され、替わりに二条城の天守が移築されることになった。 しかし、二条城の天守は淀城の天守台に比べると小ぶりで周囲に余白が出来てしまったので、その空白を埋めるために四隅に二重櫓を配し、その間を多聞櫓で連結するという複雑な構造になったという。 この日は天守台に柵がしてあり、中に入れませんでした。 淀城本丸の様子。 公園になっていました。 本丸の一隅に建つ淀城碑。 本丸西口門の石垣。 本丸の東側は宅地化で消滅しています。 本丸水堀西側。 水堀は半分しか残っていません。 淀城には復元計画があるとか、是非お願いしたいものです。 この日はちょうど天皇賞の日でした。 京阪淀駅を降りる乗客は淀城など見向きもせず、京都競馬場へ向かって行きました。 横典騎乗のイングランディーレが爆走し、ネオユニバースやゼンノロブロイを完膚無きまでに叩きのめした日でしたね。 あれから5年か… また、淀城と淀君ゆかりの淀城古城へ行ってみたいです。 |
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