|
登城日 第一回 2003年 秋 晴 第二回 2009年 1月 2日(金)晴 難易度 ☆☆ 場所 茨城県結城郡八千代町大字太田字中城 八千代町役場の東約15分歩いたところに太田城がありました。 下総の太田城は、戦国大名に成長した多賀谷氏によって築城された。 天正十七年(1589年)当主多賀谷重経は、佐竹義宣の弟宣家を娘の婿に迎え多賀谷彦太郎宣家と名のらせて下妻を継がせ佐竹氏との連携を強化するとともに、嫡子虎千代を和歌城へ配置し岡田・豊田・下猿島の三郡の多賀谷領を分治し結城氏に出仕させた。 虎千代は石田三成を烏帽子親として元服し、多賀谷三経と名乗った。 そして、三経が和歌城へ移って間もなく、太田城の築城が開始され、翌天正十八年(1590年)太田城が完成した。 その後、豊臣秀吉の太閤検地によって、下妻多賀谷氏は22万8000石から6万石へ減封され、さらに関ヶ原の戦いの際、多賀谷重経が佐竹氏に従い徳川家康を襲撃する計画が発覚し、戦後領地没収された。 多賀谷宣家は佐竹氏に従い秋田に移って、桧山多賀谷氏となった。 一方、多賀谷三経は結城氏の重臣として越前へ移った。 その後、太田城は廃城となったという。 しかし、太田の集落の中には城の遺構が随所に残っている。 城跡へは龍昌院を目指すと良い。 龍昌院をよく見てみると、土塁で囲まれている。 空堀もあります。 空堀の先を進むと、 視界が開け、和歌城が見えます。 和歌城から見た太田城。 遠く筑波山が見えます。 切岸が見られます。 龍昌院を出て、太田の集落を歩くと、家々の間を途切れながらも土塁が残っています。(前回のもの) 土塁には祠がのっています。 土塁の前には堀跡も見えました。 敷地内に土塁が残っている家もありました。 首打口あたり。 東口あたり。 愛宕神社。 ここも曲輪の一つのようだ。(前回のもの) 愛宕神社にも土塁が残る。 逆から。 前回集落のどこかで説明板を見たような記憶があったのですが、見当たらなかった。 (おまけ) 帰りは下妻駅まで歩きました。 燃えるような夕焼けがきれいでした。 遠くに富士山が見えました。 それにしても下妻駅は遠かったです。 |
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]






