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登城日 第一回 1999年頃 晴 第二回 2007年10月 7日(日)晴 難易度 ☆ 場所 鳥取県米子市久米町 何故、100名城に入れなかったのでしょうか。 洲本城と同じように、米子藩が鳥取藩の支藩だったからでしょうか。 【米子城の歴史】 米子城は、応仁から文明年間(1467年から1487年)に、山名宗之によって砦として飯山(いいのやま)に築かれたのが始まりと伝えられます。 文献上は、「出雲私史」に文明2年(1470)に初めて記述がみられます。 現在、「城山」と呼ばれている湊山(みなとやま)の本格的な城としては、西伯耆の領主となった吉川広家が天正19年(1591)に築城を開始しました。 しかし、完成した城を見ることなく、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に敗れた吉川氏は岩国に国替えとなりました。 吉川家文書「戸田幸太夫覚書」によると、それまでにほぼ7割、築城されていたとあります。 慶長6年(1601)、伯耆国18万石の領主として 中村一忠が封せられ、慶長7年(1602)頃、米子城は完成したといわれています。 慶長14年(1609年)に一忠が急死、中村氏が断絶し、翌年に 会見・汗入(あいみ・あせり)6万石の領主として加藤貞泰が入城しました。 この後、近江聖人・中江藤樹も米子にやって来ました。 元和3年(1617)、加藤氏は伊予大洲へ国替えとなり、因伯領主 池田光政の一族の池田由之が米子城預かり3万2千石となります。 寛永9年(1632)には、池田光仲が因伯領主となり、家老の荒尾成利が米子城預かり1万5千石となりました。 以後、明治2年(1869)まで、荒尾氏が代々、米子城主として城を預かり、自分手政治を行ないました。 明治2年、米子城は荒尾氏から藩庁へ引き渡され、その後、士族に払い下げられました。 そして明治6年(1873)には、米子城の建物の大半は売られて、数年後に取り壊されることとなります。 ([http://www.city.yonago.lg.jp/4438.htm 米子市HP]より) 米子城遠景。
手前の山は飯山。 飯山には山名宗之が築いた砦があった。 まず飯山城へ。 米子城になってからは釆女丸と呼ばれていた。 高石垣で3段に築かれた郭で、2段目は帯郭状になっており、最上段の南に櫓台を配置していた。 頂部は2段に造成され、現在、戦没者慰霊の英霊塔のほか、東屋、トイレも設置されている。 石垣は草木に埋没し、一部が確認される状態とのことだが、解らなかった。 説明板。 米子城は、現在湊山公園となっている。 大手門付近から見た二の丸桝形。 二の丸桝形は良く残っている。 米子城説明板。 二の丸表門跡から桝形を見る。 二の丸には旧小原家長屋門が移築されている。 その裏の市営湊山球場があるところには、かつて御殿があった。 現在は、御殿井戸だけが残る。 まず、内膳丸へ向かう。 残存する内膳丸の石垣。 内膳丸。 丸山に築かれた郭で、中村一忠の家老 横田内膳が監督してつくった郭であることから「内膳丸」と呼ばれ、本丸の守りを強化する役目を果たしていた。 2段に配置された一の段郭、二の段郭から構成されている。 二の段郭には角櫓、蔵が置かれていた。 また、この郭から本丸へ向けて石垣を設け、西の防衛線が築かれていた。 現在、二の段郭の角櫓跡付近に東屋がある。 本丸へ向けた石垣は崩落埋没し、一部が残存しているのみ。 内膳丸から見た本丸。 天守閣が正面に聳えていたんでしょうね。 本丸へ向かう。 石垣が現れる。 凄い石垣ですね。 番所跡。 鉄御門へ向かう。 鉄御門跡。 横には小天守(四重櫓)が聳えていた。 鉄御門を抜けると、 本丸。 天守が建っていた。 天守台の様子。 内膳丸を見下ろす。 小天守台。 番所跡を見下ろす。 飯山砦(釆女丸)を見る。 天守台から見た本丸。 本丸西側の虎口。 水手御門跡。 遠見櫓跡。 遠見櫓跡から見た本丸。 本丸を後にする。 堀も残っていれば良かったのですが。 復元計画を楽しみにしています。 |
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2009年10月09日
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