三日月の館

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高崎城(上野国)

登城日 第一回 2003年 4月 6日(日)晴     
      第二回 2007年11月 4日(日)晴
難易度 ☆
場所   群馬県高崎市高松町

高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城があった。
和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われる。
室町時代になり関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属した。
永禄4年(1561)当時の城主和田業繁は帰属していた上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄についた。
和田城は上杉勢の度々の侵攻によく耐えた。その子、和田信繁は、北条氏に属した。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城に籠城した。和田城の留守を預かる信繁の子・兼業は、前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月19日(新暦5月22日)に落城し、廃城となった。
小田原攻めの後、関東には徳川家康が入部した。
家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、慶長2年(1597)家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為である。
翌、慶長3年(1598)直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。
直政は入城に際し、当地を「高崎」(高崎市内の竜広寺の住職が当初、江戸幕府が松崎と命名しようとしたときに高崎と名付けたほうが縁起がよいとのことで)と名付けたとされている。
箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となった。
その後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えた。最後の藩主は輝声(てるな)である。
松平(長沢・大河内家)は歴代幕府要職に就くものが多かった。
元和5年(1619)に入城した安藤重信は城の改修に着手した。以後、3代77年間をかけて大改修され近代城郭が整備された。 
寛永10年(1633)には、実兄である3代将軍徳川家光の命により、この城に幽閉されていた徳川忠長が当城で自裁した。
明治6年(1873)廃城令により存城となり、第3師官官内分営所が置かれた。
以後建造物は移築もしくは破却され、跡地の大半は歩兵第15連隊の駐屯地として使用された。
(wikipediaより)
高崎城へは、JR高崎駅からスズラン百貨店を目印に西へ歩くと良い。

詳しい地図で見る
三の丸の水堀と土塁が残っている。
イメージ 1
南から。
イメージ 2
同じ場所の春の様子。(前回のもの)
イメージ 3
三の丸の土塁を内側から見る。
イメージ 4
現地にあった縄張図。
イメージ 5

三の丸の土塁上に本丸乾櫓と東門が移築保存されている。
イメージ 6
東門。
イメージ 7
東門と乾櫓を内側から。
イメージ 8
乾櫓を内から。
イメージ 9
説明板。
イメージ 10
三の丸のニセ石垣を潜って外へ。
(何でこんなもの造ったんでしょうね)
イメージ 11
外側から見た乾櫓。
イメージ 12
同じ場所の春の様子。(前回のもの)
イメージ 13
三の丸の内側には特に遺構らしきものを見つけることが出来ませんでした。
イメージ 14
当時は烏川の土手付近には和田城の櫓台が残っていたそうです。
今は国道の改修工事で消滅してしまったとか。
高崎には今後足が向かないなぁ。

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