三日月の館

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登城日 第一回 2004年 夏 晴
      第二回 2009年 3月28日(土)晴
難易度 ☆☆
場所   岐阜県中津川市苗木

 苗木城は、戦国時代に築城され、江戸時代を通じて大名遠山氏の居城であった。
 この城郭跡がのこる苗木城は、中世山城の性格を色濃く持つ城跡であり、また巨岩と石垣が織りなす景観と恵那山系の眺望の素晴らしいところである。昭和56年に国の史跡となり、現在本丸の石垣、武器蔵、菱蔵門付近及び坂下門跡までの石段、石垣復元修理事業が行われている。
 城跡は東西に流れる木曽川の一段と高くそびえる高森山(432m)あり、木曽川から山頂の天守閣跡までの標高差は170m、自然の地形を有効に生かして築かれた山城である。
 その昔東美濃地方に住む遠山氏の多くは守護土岐氏と共に奉公衆として室町幕府につかえた。
 通称城山と呼ばれるこの高森山に苗木城が築城された時期については諸説あるが、その一つに大永6年(1526)福岡植苗木に住んでいた遠山一雲入道昌利が築城し、その子景長が居城した。景長に嫡男なく岩村から養子左近(正廉か)を迎え次いでのち岩村城最後の城主となった景任の弟左近直廉(勘太郎)が養子となったといわれている。
 元亀3年(1572)左近佐は飛騨の国萩原城主三木氏と戦い威徳寺合戦でこれを破った。しかし左近佐には世継ぎなく織田信長は、遠山一族の飯羽間城主遠山友勝に命じて苗木城継がせた。友勝は飯羽間城を、長男の友忠に譲って苗木へ移った。
 信玄の死後天正3年(1574)に武田勝頼が東濃を攻めた。この時友忠は二男友重と明照城(手賀野)を守って武田勢の木曽氏と戦ったが友重は戦死した。父に代わって飯羽間を守った長男友信は飯羽間を失い武田軍の捕虜となった。
 その後苗木城の友勝が亡くなったので明照城の友忠は三男友政と共に苗木城に入った。苗木城主遠山友忠は武田の親族衆だった木曽義昌に働きかけ、武田を裏切らせ織田軍の信濃進攻を要請した。
 天正10年(1582)2月織田軍は信濃を攻め苗木、木曽勢は鳥居峠で大活躍した。3月には武田氏が滅亡した。
 先に苗木城主苗木勘太郎は織田信秀の娘(信長の妹)を妻としてむかえている。さらに、ふたりの間に生まれた姫は信長の養女となり、永祿8年(1565)武田信玄の息子、勝頼のもとに輿入をした。この姫は竹王信勝を生んで死に、信勝は天正10年(1582)父勝頼とともに天目山で自刃し、武田家は滅亡した。
 その3ヶ月後、信長が本能寺の変で死ぬと秀吉の勢が強大となった。
『苗木明細記』よると「天正年中遠山久兵衛尉友忠同国可児郡兼山の城主森武蔵守長可と戦争に及び衆寡敵せず以和睦終に城を明渡し友忠其子三郎兵衛友政と共に遠州浜松に至り徳川家康公を頼み彼地に滞在して菅沼小大善が手に属させらる。後に友忠は彼地において卒す。友政名を久兵衛と改父の跡を継て上州館林の城主榊原式部大輔康政が手に付けさせらる」とある。
 慶長3年(1597)秀吉が死ぬと、兼山城主森氏は川中島へ移り、苗木城も森氏の支配kら離れ、川尻直次が苗木城主となった。苗木明細記によると「其後慶長5年石田治部少輔三成叛逆の時友政、家康公に願ひて旧城を攻取らん事を請則許可を得て不日にして駆向ひ押寄るの処 其時の城主川尻肥後守直次が城代した後 関治兵衛冶景兼て石田敗北を聞和睦を求一戦にも不及速やかに城を明けて立去りける 友政旧城を復し再び城主となり給ひ 10520石余を賜る」。榊原家譜には、「石田治部少輔謀叛ノ聞エアルヨリ秀忠殿ノ供奉シテ中山道ヨリ上方へ登ル 此節濃州苗木遠山久兵衛 康政方ニ在シ處故有テ特命ヲ蒙リ譜代ノ家臣召連 中山道ヲ供奉シテ本領ニ趣キ壱万石ヲ受領ス」と記されている。関が原合戦後、友政は父の遺領10521石余りを認められ、初代苗木藩主となりその後十二代 二百六拾有余年にわたる苗木藩政の基礎を築いた。
苗木藩は、藩成立以来解体まで、遠山氏の治める領地であり、他藩にみられるような領主(殿様)の交代はなかった。
(「苗木城と藩主」より)
苗木城へは、JR中央本線中津川駅から北恵那交通バス「苗木」下車徒歩20分ですが、バスの本数は少なく、JRとの接続もあまり良くない。
前回は行き帰りバスに乗れましたが、今回は行き帰りとも徒歩になってしまった。
バスに沿って歩くと片道一時間でした。

詳しい地図で見る
玉蔵橋から見た苗木城。
玉蔵橋から木曽川沿いに歩いて四十八曲坂から登城すれば約半分の時間で行けたのでは?
手前の鉄橋は北恵那鉄道の廃線跡です。
イメージ 1

途中で見たマンホールの蓋。
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廃線跡を歩く。
山之田川駅跡。
ホーム跡が僅かに残る。
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苗木駅跡。
前回来たときはまだホームがしっかりと残っていたのですが、今回は宅地分譲されていました。
(前回写真を撮っておけば良かった)
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城下町の蔵。
海鼠壁が特徴的。
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このあたりは武家屋敷が建ち並んでいたようだ。
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上町門跡。
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案内図。
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風呂屋御門跡。
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竹屋御門跡。
戸が竹でつくられていたので、この名称で呼ばれていた。
門番は無く開け放しの門であった。
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足軽長屋跡。
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説明板。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1510034/54/62591654/img_176?1545572031_
その奥にあった龍王院跡。
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説明板。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1510034/54/62591654/img_175?1545572031_
足軽屋敷跡から見た本丸。
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竹御門跡を振り返る。
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下男屋敷跡石垣。
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風吹門跡。
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説明板。(前回)
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1510034/54/62591654/img_177?1545572384_
風吹門跡から見た大矢倉の石垣。
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大矢倉の先には北門がありました。
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説明板。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1510034/54/62591654/img_178?1545572562_
北門脇には貯水池があります。
馬の飲み水に利用していたという。
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風吹門跡へ戻る。
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大矢倉石垣。
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説明板。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1510034/54/62591654/img_179?1545572795_
登るのは一苦労だった。
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大矢倉から見た本丸。
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駈門跡。
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竹門へ通ずる道。
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竹門跡。
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説明板。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-e7-31/kanezane/folder/1510034/54/62591654/img_180?1545573055_
城坂四十八曲の途中にあった石造りの橋。
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駈門跡を下から見る(前回のもの)
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駈門跡を上から見る(前回のもの)
イメージ 29

(つづく)

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