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場所 京都市中京区木屋町通御池上る西側 三条木屋町にある高瀬川の橋の東側に碑が建っています。 「佐久間象山先生・大村益次郎卿遭難之碑」 そうか、ここで佐久間象山と大村益次郎は事件にあったんだなぁ〜 と思いきや、良く見ると… 「北へ約壱丁」 と小さく書いてある。 な〜んだ、紛らわしい。 1丁=約109mとのこと。 行ってみる。 京都市中京区木屋町通二条下ルにある京料理「さつき」 かつてここに大村益次郎の定宿がありました。 桂小五郎 幾松 寓居址のすぐ北です。 詳しい地図で見る 門前に「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」の碑が建っています。 明治2年9月4日、この定宿の2階の奥座敷で襲撃され、その傷がもとで同年11月5日大阪の病院で歿した。 大村益次郎とはどんな人物なのか? 東京へワープ!東京・靖国神社に建つ大村益次郎像。説明板。 大村益次郎は文政7年(1824)、周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめ村田蔵六といった。 広瀬淡窓について儒学を、緒方洪庵について蘭学を学び、嘉永の初め宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。 さらに江戸に出て私塾『鳩居堂』を開き、幕府の講武所教授等を勤め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。 ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、第二次長州征伐の折に、石州口の戦いを指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。 戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱を平定。 ついで兵部大輔に任じられ、建議して軍制を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869)9月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年11月5日大阪にて歿した。 46歳。 明治2年6月、戊辰戦争の戦歿者を祀る東京招魂社(現、靖國神社)の創建に際し、社地選定のため同月12日、この地を視察したことも記録に見え、靖國神社創建者としての功績は大きく、明治15年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の製作が委嘱された。 大熊氏廣は明治9年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師ラグーザの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。 卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治18年に大村益次郎の銅像製作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。 パリ美術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。 大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。 大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら製作にあたったという。 陣羽織をつけ左手に双眼鏡をもち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。 後に大熊は、有栖川宮熾仁親王、小松宮彰仁親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。 この銅像は、上野の西郷隆盛の像の後ろの彰義隊の墓の方を向いている。 なるほど、良く解りました。 京都へ戻るまた、この付近で5年前の元治元年(1864)7月11日の夕刻、この路上を馬に乗って通りかかった佐久間象山は、刺客に襲われて斬られ即死した。 先日ご紹介した佐久間象山寓居之址へ戻る途中だったようです。 説明板。 佐久間象山は信州松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。 彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本竜馬ら傑物を輩出しています。 元治元年(1864)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月11日に刺客に斬殺されました。 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵法者となりました。 長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力しました。 しかし、廃刀論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年敗血症で死去しました。 左が大村益次郎、右が佐久間象山。 何故川の向こうに建っているのかは解りませんでした。 幕末に大きな影響を与えた佐久間象山と大村益次郎の史跡でした。 |
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