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場所 兵庫県明石市和坂一丁目 7月6日、足利義教の葬儀を行なった後、細川持常、赤松貞村、赤松満政の大手軍が摂津から、山名持豊(宗全)ら山名一族の搦手軍が但馬、伯耆から播磨、備前、美作へ侵攻する討伐軍が決定した。 7月11日、大手軍は京を発向したが、事実上の総大将であった侍所頭人山名持豊はなかなか京を動かなかった。 7月初旬に山名教清が伯耆から美作へ侵入した。 同地の国人はほとんど抵抗せず、美作は山名勢に制圧された。 細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出。 7月25日、赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却している。(庫御所合戦) 大手軍は戦意が低く、但馬口の山名持豊が動かないため進軍を止めてしまった。 7月28日、山名持豊はようやく京を発し、但馬へ向かった。 8月1日、細川持之は赤松討伐のための治罰綸旨を奏請し、後花園天皇はこれを許した。 8月19日、摂津の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親は海路から塩屋(神戸市)の赤松教康の陣を攻撃した。 赤松教康は陣を放棄して蟹坂へ後退し、大手軍はようやく播磨へ入った。 8月24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。 8月25日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。 赤松教康は奮戦し、細川軍を破り、武将の吉川経信の侍大将らの多くを戦死させた。 8月26日、但馬口が突破されたとの報(虚報であった)を受け、戦意を失って坂本城へ退却した。(人丸塚の戦い) JR明石駅前に聳える明石城。
中世には人丸山(赤松山)と呼ばれ、山頂には柿本神社が鎮座していた。 今でも本丸には人丸塚が残る。 嘉吉元年(1441)7月11日に京を発した室町幕府の大手軍はゆっくり進軍し、8月19日にようやく播磨に入り、人丸塚に陣を敷いた。 一方、迎え撃つ赤松氏は和坂に陣を敷いた。 和坂はJR明石駅と西明石駅の間にある。 国道2号線がJRの線路を渡った所にあるバス停は「和坂川崎重工前」。 川崎重工明石工場がある。 ここから明石方面へ下って行く坂が現代の和坂。 下った所にある交差点は「和坂(わさか)」。 国道175線と交わる。 和坂交差点の北に和坂稲荷神社が鎮座する。 登ってみる。 登った所にある和坂稲荷神社。 地元の集会所みたい。 和坂稲荷神社からJRの線路を挟んで北にこんもりとした森が見える。 赤松教康が陣を敷いた和坂構居の跡で、現在は坂上寺が建っている。 行ってみる。 国道175号線を北上し、JRの線路を潜った所にある「市バス車庫前」交差点。 ここで交わる道は西国街道(山陽道)。 少し進むと坂がある。 この坂が和坂で、「かにがさか」とも読む。 昔は山に囲まれた険しい坂道で、大きな蟹が住みつき旅人を苦しめていた。 そこへ諸国を巡礼していた弘法大師が通りかかり、蟹を封じ込めた。 その後、この坂を通る人たちは平穏な旅が続けられたという。 蟹を封じ込めた所は「蟹塚」、蟹が出没していた坂を「蟹和坂」と呼ばれ、蟹和坂はいつしか蟹が取れて「和坂」になったと云う。 和坂の途中にある坂上寺。 赤松満祐の子、赤松教康が陣を敷いた和坂構居跡。 登った所にある本堂。 結構参拝者がいました。 坂上寺から和坂公園の池を見下ろす。 昔は二つの池があり、池の中に「蟹塚」の碑が建っていたが、埋め立てられてしまったという。 蟹塚の碑は和坂から少し東へ行った大道町1丁目の公園南側に移されている。 碑を拡大。 説明板を拡大。 弘法大師だろうか。 幕府大手軍を相手に奮戦していた赤松教康であったが、但馬から侵攻してきた山名持豊に但馬口を突破されたとの虚報に惑わされ8月26日に書写坂本城への撤退を開始。 撤退途中に前日来の大雨で増水した加古川を渡ろうとして多くの将兵を失ってしまった。 |
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2011年12月04日
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