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所在地 奈良県葛城市當麻1263
山号 二上山
宗派 臨済宗相国寺派
本尊 当麻曼荼羅
創建 伝・推古天皇20年(612)
開基 伝・麻呂古王
【當麻寺】
當麻の名を知らせる名刹で、二上山のこんもりとした樹影を背景に静かなたたずまいを見せています。
用明天皇の皇子麻呂子王が推古天皇20年(612)に河内に建てた万宝蔵院に始まりその後天武天皇白鳳11年(681)に麻呂子王の孫當麻国見が現在地に移してこの地方の豪族當麻氏の氏寺として整備したと伝えられています。
金堂、講堂が南北に一直線に並び金堂の南方両側に東西2つの三重塔が建ちさらに本堂、薬師堂、仁王門などが独得の伽藍配置で建ちならんでいます。
とくに古代に建立された東西両塔が完備している姿は全国でも當麻寺だけとして有名です。
宗旨としては初め三論宗を奉じていましたが弘法大師が参籠してから真言宗にかわり鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり以後現在まで真言浄土の二宗を併立し八ヶ寺の塔頭(寺院)よりなる珍しいかたちになっています。
また金堂にある弥勒仏座像や日本最古の梵鐘をはじめ数多くの貴重な寺宝を今に伝えており国宝・重要文化財に指定されているものも少なくありません。
ボタンの名所としても有名で4月下旬より境内にはボタンの花が咲き誇り落ち着いた雰囲気に色をそえています。
5月14日には、中将姫ゆかりの”練供養”が行われ全国から集まった参詣者たちで境内は大変なにぎわいとなります。
平成元年3月吉日
葛城市観光協会
最寄駅は近鉄南大阪線当麻寺駅。
参道途中にある葛城市相撲館。
ここ當麻は相撲発祥の地という。
相撲の起源として當麻蹶速と野見宿禰の天覧相撲が日本書記に書かれている。
當麻蹶速は手で角をへし折るほどの怪力の持ち主で、常日頃から「この世で自分と互角に力比べ出来る者はいない、もしいればその人物と対戦したいものだ」と豪語していた。
天皇はその話を聞き、家臣に「當麻蹶速と互角に戦える者はいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が出雲の国に野見宿禰がいると進言。
垂仁天皇7年7月7日に當麻蹶速と野見宿禰の対戦が行われた。
お互いに足をあげて蹴り合い、長い戦いの末、蹶速はこの試合で命を落としてしまった。
この時の力比べが国技相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲と言われています。
館内は土俵があります。
また相撲の歴史が解る資料館にもなっています。
館の外には當麻蹶速の塚と言われる五輪塔があります。
参道を進む。
當麻寺仁王門に到着。
修復中で見られないのが残念。
境内図。
仁王門から境内を見る。
梵鐘。
何と、国宝!
右手の薬師門を抜けると薬師堂。
国の重要文化財。
境内へ戻って先へ進む。
真ん中に中将姫来迎松。
左手に中之坊。
役の行者が開いた道場と云う。
中之坊境内図。
山門から入ると玄関がある。
隣の書院は国の重要文化財。
役の行者創製の胃腸薬「陀羅尼助」精製の釜。
中将姫剃髪堂。
右大臣藤原豊成の娘中将姫は、仏道を志し當麻寺へ入山、この堂で剃髪して尼僧になったと云う。
本尊十一面観音菩薩は、中将姫の護り本尊「導き観音」として信仰される。
加持水の井戸。
役の行者がこの井戸の水と薬草で「陀羅尼助」を作った。
中将姫誓いの石。
当初女人禁制だった當麻寺に入山したい一心で三日間念仏を唱えたところ、石に足跡がついた。
国指定史跡香藕園。
心字池と書院。
茶室丸窓席。
国の重要文化財。
中之坊を出て本堂へ。
左側に金堂。
国の重要文化財。
本尊は塑造弥勒仏坐像(国宝)。
右側に講堂。
国の重要文化財。
奥に本堂(曼荼羅堂)。
本堂内陣に当麻曼荼羅厨子が安置されている。
厨子には、中将姫が一夜にして織り上げたという本尊・曼荼羅図が飾られている。
共に国宝。
本堂から境内を見下ろす。
伽藍配置が京都の寺とは違うのが解かる。
金堂の南側。
国の重要文化財である石燈籠が建つ。
東塔へ。
国宝、東塔。
今度は国宝、西塔へ。
塔頭西南院から良く見える。
西塔と東塔。
近世以前の東西両塔が現存するのは大変貴重。
境内のさらに奥に塔頭奥院がある。
鐘楼門は国の重要文化財。
奥院にも国宝や重要文化財が多数あるそうだが、ここで時間が無くなってしまった。
最後に御朱印。
不用意に訪ねてしまったが、国宝や重要文化財が多数あり、全部見るためには半日以上必要だった。
名残り惜しいが駅へ急ぎました。
さて、数々の文化財に見惚れてしまって赤松氏どころでは無かったが、ここ當麻寺は赤松則繁最後の地と云う。
赤松則繁は、播磨守護赤松満祐の弟で赤松一族で屈指の武勇を誇る猛将として知られていた。
嘉吉元年(1441)嘉吉の乱においては、将軍足利義教の暗殺に主導的役割を果たし、播磨へ帰国後は赤松義雅や龍門寺直操と共に但馬口を守るが敗退。
城山城落城前に赤松教康と共に脱出。
脱出した則繁は室津から船で筑前守護の少弐教頼を頼って落ち延び、さらにその助けを得て李氏朝鮮に渡った。
朝鮮では倭寇の頭領なって暴れまわり、遂には李氏朝鮮が幕府に討伐を要請する事態に。
文安5年(1448)1月、日本に帰国した則繁は少弐教頼と共に肥前で大内教弘軍と戦ったが敗れた。
このため播磨に逃れるも、播磨はすでに山名宗全の領国だったためどうしようもなく、河内の畠山氏を頼った。
しかし8月8日、幕府に潜伏先を知られてしまい、赤松則尚の軍によって潜伏先の当麻寺を包囲されたため、自害した。
赤松則繁だけでも一つの小説が書けそうな話ですね。
国宝や重要文化財の数々が一緒に焼けなかったのは良かった。
(おまけ)
駅前の中将堂本舗。
當麻名物「中将餅」を販売。
こちらが中将餅。
「當麻」という地名は、日本武尊が巡行の際、その命に服さない佐伯鳥日子を攻めるのに、道狭く地が泥深(たぎたぎし)いといわれ、それが変化してタイマ(當麻)になったと云う。
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