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所在地 京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495 主祭神 崇道天皇・他部親王・井上皇后・火雷神・藤原大夫神・文屋宮田麿・橘逸勢・吉備大臣 創建 貞観5年(863) 【御霊神社(上御霊神社)】 祭神として崇道天皇、吉備真備、橘逸勢をはじめ、十三柱の神霊を祀る。 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後、明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。 平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊のたたりであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。 朝廷から庶民に至るまで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として皇室の崇敬が厚く、神輿や牛車等、皇室からの寄附品を多数蔵している。 本殿は、享保18年(1733)に下賜された賢所御殿を復元したものといわれている。 また、境内は「御霊の杜」と呼ばれ、応仁元年(1467)正月18日に畠山政長と義就の合戦が行われ、応仁の乱の発端となった場所としても知られている。 京都市 寺町通に面した社標。 時計が嵌め込まれている。 上御霊前通を西へ。 すぐに御霊の杜が見えて来ます。 この堀には、5月頃「イチハツ」という菖蒲のような花が咲き誇る。 南側に面した神門。 ここの社標にも時計が嵌め込まれている。 境内の様子。 小さな手水舎。 南側には神輿庫かな。 絵馬所。 拝殿でお参り。 社殿南側からぐるーっと。 清明心の像。 今となっては不気味な、明治40年3月に当時の陸軍大臣寺内正毅が奉納した「戦利兵器奉納ノ記」。 境内の南西奥に鎮座する福寿稲荷神社。 御由緒。 神明社。 厳島神社。 社殿北側へ。 摂末社群が建ち並ぶ。 摂末社の拝殿。 八幡宮。 ちょっと一休み。 参道を西へ。 舞殿。 石柱に埋め込まれた時計。 社務所。 御朱印をいただく。 富士谷御杖の詞碑。 新村出の歌碑。 芭蕉の句碑。 「半日は 神を友にや 年忘れ」 手水舎。 西側の神門から出る。 神門を振り返る。 鳥居。 鳥居の根元に、以前ご紹介した花御所八幡宮の石碑。 反対側の社標の脇に「応仁の乱 勃発地」の石碑。 説明板。 【応仁の乱 勃発地】 文正2年(1467)正月18日早朝、この付近、すなわち上御霊神社の森の合戦から、応仁の乱ははじまった。 17日の夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと兵約二千を率いてここに布陣した。 翌18日早朝、政長と畠山家の家督を激しく争っている義就が兵三千余で攻撃をしかけ、18日は終日激しい戦闘が続いた。 義就方には朝倉孝景、ついで山名宗全が加勢した。 しかし政長方にはたのみの細川勝元がこの段階では動かず、まる1日の合戦ののち、政長方が敗退した。 これが、応仁の乱の最初の合戦である。 3月、年号は応仁と改まり、細川、山名両陣営ともに味方を集めて戦時体制をかため、5月から上京を中心に、東西両軍の全面的な戦闘にはいる。 京都市 |
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2012年08月22日
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