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場所 京都市上京区山名町付近 応仁元年5月、細川勝元率いる東軍と山名宗前全率いる西軍は堀川を境に激突した。 堀川今出川交差点の西北にある鶴屋吉信の前に建っている石碑。 「西陣舩ばし」と書いてある。 所在する場所の町名も西舟橋町。 付近には北舟橋町や南舟橋町もある。 説明板。 【舟橋の由来】 この地は、古くから舟橋と呼ばれていますが、昔、堀川がはんらんしたとき、舟を繋いで橋としたことから起こったといわれます。 「京町鑑」では、足利尊氏の執事、高師直の邸があり、泉殿の下に舟橋を浮かべて結構を尽くしたのが地名になったと記されています。 応仁の乱では、西軍の将、山名宗全の本陣が近くの山名町にあって、西陣の地名になりました。 山名町へ行ってみる。 堀川通を少し北へ上った所にあります。 マンションの南側に碑が建っています。 「山名宗全邸址」と書かれていました。 細い通りを西へ。 ここにも山名宗全邸跡を示す碑が建っています。 説明板。 【山名宗全邸宅跡】 山名宗全は応永11年(1404)に生まれ、名を持豊といい、後に宗全と号したが、赤ら顔であったので赤入道ともいわれた。 但馬をはじめ数ヶ国を領し、強大な勢力を持っていた。 子供がなかった将軍足利義政は、弟義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人富子に義尚が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、応仁の乱に発展した。 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。 このため、京都の町の大半は焦土と化した。 なれや知る都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても落る涙は (飯尾彦六左衛門尉常房) この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)、陣中で没した。 このあたり一帯を西陣と呼ぶのは、宗全が幕府の西に陣を敷いたことによる。 京都市 石碑には「山名宗全舊蹟」と書かれていました。 ここ山名宗全邸を中心に、東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの間を西陣と呼ぶようになった。 再び今出川通へ戻り少し西へ行くと、京都市考古資料館があります。 数々の素晴らしい企画展をやっているので必見です。 詳しくはHPで。 考古資料館前に西陣碑が建っています。 京都帝国大学…(何やらかんやら) 難しくて読めません。 応仁の乱後、京織物の職人は両軍の本陣の跡地である東陣(白雲村)・西陣に帰還し諸国で習い覚えた明などの新技術も加えて京織物を再興、特に西陣はブランドを確立し、京織物の産地として発展した。 さらに西へ。 大宮今出川。 ここは、旧西陣織物産地問屋協同組合跡地とのこと。 この交差点は江戸時代には日々千貫千両に値するおびただしい品物が往来していたことから「千両ヶ辻」と呼ばれた。 ここにも、西陣の名の由来が書かれていました。 堀川今出川の交差点へ戻って、今度は少し堀川通を下ると西陣織会館があります。 ここにも西陣碑が建っています。 考古資料館前の碑が風化してきたので、新たにこちらにも碑を建てたとのことで、内容は同じだそうです。 【西陣】 京都帝国大学総長医学博士荒木寅三郎閣下篆額 古来朝廷には大蔵省に織部司ありて綾錦を織り及び染物の事を掌れり 後其業民間に移り織工等大舎人座を組織して高機を構へ大舎人織手師と呼ばる 応仁の乱に東西の両軍京都に割拠して攻戦11年に及び其間西軍は五辻通大宮東なる山名宗全の邸を中心として堀川以西一条以北の辺に駐屯せしより此一画を呼んで西陣といふ 是時に当りて戦乱相次ぎ京都の織工多く難を避けて和泉堺の海浜に居住せり 堺は乱中幕府の遣明船発着の港となり貿易殷賑を極めたり 乱平ぎし後京都の織工帰りて西陣の地白雲村に居り明の織法を伝へて其面目を新めたり 天文中大舎人座中31人ありしが元亀2年を其6人を内蔵寮織物司に補せられ御寮織物司と号す 天正中豊臣秀吉白雲の水質不良なるを以て新在家に移せりといふ 此前後より印度支那及び西洋諸国の織物を伝へて其業益精しく機業の隆盛を来すと共に織工の家西陣の故地に櫛比し西陣織物の盛名宇内に喧伝せらるるに至れる 今茲に西陣発源の地をとして碑を建てて其来歴を明らかにす 昭和3年11月 文学博士三浦周行撰 山田得多書 応仁の乱は、赤松氏再興のきっかけとなった。 西軍の山名氏に対し、赤松氏は東軍につき応仁元年(1467)5月の開戦直後に播磨へ侵攻開始。 赤松氏の旧領であった播磨・備前・美作を回復することとなった。 (この時、加賀北半国は放棄したようで、同じ東軍であった冨樫政親が所領を回復した。) (おまけ) 西陣碑の隣りに村雲御所跡の石碑が建っている。
豊臣秀吉の姉・日秀が子の豊臣秀次一族の菩提を弔う為に建てた瑞龍寺の故地を示している。 瑞龍寺は日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院となり、村雲御所と称された。 当初は嵐山の二尊院近く(嵯峨村雲別院のある地か)に建立、江戸時代に西陣へ移転、昭和36年(1961)に豊臣秀次の居城だった近江八幡市の八幡山城へ再移転した。 京の名所旧跡(目次)へ戻る |
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2012年08月26日
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