【備前福岡あれこれ】
赤穂線長船駅から西へ1km。
また岡山市の中心から国道2号線を東へ20km余り、吉井川にかかる備前大橋から東側の堤防を、右手にゴルフ場を眺めながら1kmばかり下ると不思議な町並みが目に入る。
駅もなく街道からもはずれながら密集した人家が200ばかり、その中を真直に走る道路の広さにまず驚かされる。
南北に2本、東西に4本、その間を結ぶ狭い道も基盤の目のように整然としていて都ふうな町をしのばせる。
この集落−福岡の家並みは古い歴史の残照であり、それ故にこそ司馬遼太郎の「播磨灘物語」の冒頭の舞台となる。
『福岡とは山陽道の沿道にあたり、この時代中国筋における第一等の都会であったろう。村のそばに吉井川が流れていて水運がいいだけでなく、まわりに美田が広がり、気候は温暖で物成りがよく、餓えということを知らぬ土地だという。』
物語の中のこの時代とは、室町時代の末である。
山陽道と吉井川の交わるこの一帯は、物資の集散地として大変にぎわっていた。
時代をさらにさかのぼると、鎌倉中期の「一遍聖絵」に「福岡の市」としてその繁栄が描かれている。
布教のため全国を行脚した一遍上人の絵伝(絵巻物にした伝記)は、今も京都の歓喜光寺に国宝として保存されているが、その中の「福岡の市」のようすは、中学校の教科書に載るほど貴重で当時の市の有様を知るよすがになっている。
織物、米、魚、伊部焼(備前焼)の壺を売る商人、市女笠の女、鳥帽子狩衣の武士、市に群がる男女など当時の民衆の生活や、その背景となる風景が美しい詩情をたたえて描き出されている。
また室町初期、武将として、歌人として有名だった九州探題の今川貞世(了俊)は、その道中記「道ゆきぶり」に、『家ども軒を並べて民のかまどにぎはいつつ、まことに名にしおひたり』と記しており福岡の繁栄ぶりがうかがわれる。
往時の福岡の繁栄を現況から想像することはできないが、わずかに「七小路」「七井戸」と語り伝えられたものに、その昔整然と区割された町であったことをしのばせるものがある。
東小路、西小路、市場小路、上小路、下小路、後小路、横小路、その他横町、殿町、茶屋市場などという呼び名がそれである。
殿町というのは武士の居住地であったと思われ、市場小路、茶屋市場は「福岡の市」と関係があると思われる。
農村にしてはあまりに趣のある街作り、白壁や格子窓が残る家並み。
中世の福岡千軒から徳川の幕藩時代を経て今の小集落へ。
その接点はいつであり、どんな背景があったのか。
現在の福岡は昔の大福岡の一部がそのまま残ったものか。
宇喜多氏による岡山城下町作りへの多くの商人の引き抜きや、大洪水による荒廃のあと新たにつくり直されたものなのか。
疑問に答えてくれるものは今は残っていない。
そのあたりは謎につつまれたままである。
(現地パンフレットより)