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登城日 3回目 2012年 3月18日(月)雲 難易度 ☆ 場所 滋賀県彦根市佐和山町 前回行きそびれた大手門を見に行って来ました。 彦根駅前の元佐和山城主井伊直政。 彦根の由来。 【彦根縁起(神代〜現代)】 「古事記」の冒頭には、太陽を神とする天照大御神(伊勢神宮)が、国生みの神である伊邪那岐の命・伊邪那美の命(多賀大社)の御子として生まれたと記されており、また天照大御神の御子である天津日子根(アマツヒコネ)の命と活津日子根(イクツヒコネ)の命の兄弟神が、悠久の昔にこの彦根の地に鎮座して国造りをしたとするのが、この地方に伝承されている神話であります。 奈良時代、日本最古の法典「大宝律令」を完成させた藤原不比等とその子藤原房前が、永年彦根の地を治めたことにより、平城京にも劣らぬ地方都市がこの彦根の地に造営されていたのであります。 平安時代中期、末法思想の広がりと共に、全国各地に観音信仰が生まれ、現在彦根城のある彦根山(彦根寺)には、金の亀に乗った、一寸八分(約6cm)の観音様がおられたことから、別名を金亀山とも呼び、後に築城された彦根城は、金亀城とも呼ばれております。 また、当時、霊験あらたかな観音霊場として、彦根山参詣ブームを巻き起こし、京都方面からの参詣道は、巡礼街道と呼ばれ、現在も通称として残り往時を偲ばせております。 江戸時代、藤原鎌足の子孫である井伊家が彦根に入り(入府)、初代彦根藩主となった井伊直政公(騎乗姿)は、現在の静岡県引佐町井伊谷にて生を受け、15歳で徳川家康に見出されて以降、武田勝頼との戦いを初陣に、関ヶ原の戦いなどに数々の大功を立て、慶長6年(1601)、18万石を賜わって佐和山城主となりますが、関ヶ原の戦いで島津軍から受けた鉄砲傷がもとで41歳の若さで亡くなりました。 彦根城と城下町は、直継公(途中分家)から二代藩主直孝公にかけ、20年の歳月を経て完成したのでありますが、井伊家中興の祖と言われる直孝公の大坂冬の陣・夏の陣の大功により35万石となり、これより以降、近江の国の政治・経済・文化の中心地として栄えることとなったのであります。 また、東京世田谷の豪徳寺が井伊家の菩提寺となったのも直孝公の時からであります。 彦根の地は誰れ言うともなく「一に大老・二に佐和山殿」として、井伊直弼公と石田三成公を、彦根が輩出した偉人として市民の敬慕となり象徴となっているのであります。 井伊家が彦根の町を開き、平成13年(2001)が、丁度400年の年となり、「彦根開府四百年記念事業の一つとして、彦根市民有志の手により、本石碑が建立されたのであります。 駅前の道を真っすぐ進む。 石のひこにゃんがお出迎え。 彦根城外堀跡に到達。 説明板。 寄らずに中堀沿いを進む。 京橋から少し行った所にある宗安寺。 この山門が佐和山城の大手門だったと云う。 碑が建つ。 山門前には道路拡幅前の礎石が残る。 説明板。 本堂。 長浜城の御殿を移築し改造したものとか。 説明板。 宗安寺は、山号を弘誓山といい京都の百万遍知恩寺を本山とする浄土宗寺院。 元は足利尊氏・直義兄弟によって全国に造られた安国寺を起源とする。 井伊直政が群馬県高崎市の箕輪城主であった時に、正室の東梅院の菩提を弔うために再興されましたが、井伊直政の転封に伴って佐和山城下へ移転。 さらに、彦根城築城に伴い現在地に移転、この時安国寺から宗安寺へ寺号を変えたと云う。 江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所にもなった。 (この日も山門前で木村重成展をやっていました。) 首塚。 境内には血染めのすすきも。 説明板。 ここに来るまで木村重成のことを知らなかったくらいなので、今日はここまで。 再び佐和山城移築城門から出る。 せっかくなので佐和山城麓へ向かう。 佐和山一夜城で苦い経験をした東山運動公園。 佐和山会館前に佐和山城天守閣のミニチュアが置かれています。 正面から。 南側から。 反対側から。 このミニチュアは電車からも見えます。 佐和山会館の中にもある。 この絵をモデルにしたのかな。 石田三成に過ぎたるものだった佐和山城。 彦根城より立派やん。 駅の佐和山城ビュー。 ここにあの天守閣が建っていたのか。 素晴らしい! 百間橋と佐和山城。 湖面に映る佐和山城も素敵だっただろうなぁ〜 帰宅後に知ったのですが、佐和山城麓の清涼寺にも移築城門があったらしい。 そのうちまた行くか。 (おまけ) 彦根城中堀前に建つ彦根キャッスルホテル。
ひこにゃんのどら焼きが目に入った。 やっぱり普通のどら焼きだった。 お土産には喜ばれそう。 こちらは駅にいたひこどん。 ひこにゃんの仲間? |
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2013年01月30日
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