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場所 兵庫県姫路市夢前町宮置字倉掛 大物崩れで浦上村宗を滅ぼした赤松晴政(政祐)であったが、勢力は一旦ある程度回復したものの、領国であった播磨・備前・美作全域の支配権を得ることは出来ず、 村宗の子である浦上政宗や浦上宗景との対立はその後も続いた。
さらに、天文7年(1538)には出雲国から尼子詮久(後の尼子晴久)が侵攻を始めてきたため、晴政の領国は混乱し、一時別所氏を頼って三木城に逃れたが、やがて別所氏も尼子氏と通じたため、堺へ逃亡。 尼子氏はその後吉田郡山城で毛利元就に敗れたため播磨を去るが、赤松氏の権威はすっかり失墜してしまった。 天文21年(1552)には尼子晴久が備前・美作の守護職に任ぜられ、赤松氏の名目上の領国は播磨だけになってしまった。 さらに、赤松晴政と嫡子義祐の父子が室山城主浦上政宗と龍野城主赤松政秀を巻き込んで対立し、八朔の雛祭りの襲撃を起す。 永禄8年1月16日(1565年2月16日)に赤松晴政が病没し義祐が跡を継ぐが、この頃には播磨各地に別所氏、小寺氏、浦上氏、龍野赤松氏等が独自に活躍し、もはや赤松氏は置塩城周辺を治める小領主にまで転落。 織田氏の勢力が播磨へ浸透し始めた天正4年2月15日(1576年3月15日)に死去。 松安寺跡へは、JR姫路駅前から神姫バス前之庄行きバスに乗り庄上バス停下車。 背後の山は赤松氏の居城があった置塩城跡。 遥々やって来たのですが、今日は登らずに西へ。 この辺りには岡前遺跡があり、赤松氏の居館があったといわれている。 住宅街の奥に森の入口があり、碑が建っています。 碑の表面には「文化財 長福山松安寺墓石群」と書いてあり、側面と裏面に説明書が書かれている。 中へ入る。 入るとすぐ右手に大きな池。 奥へ進むと道が二手に分かれている。 比較的はっきりしている道が左手だったので進むと階段があった。 登るとちょっとした削平地。 足元には瓦が散乱。 ここにお寺の本堂があったのかな。 何だかよく解らなかったので、戻る。 今度は右手へ。 また池があった。 池の奥の高台に墓地があった。 赤松晴政・義祐の墓。 説明板。 【松安寺跡墓石群 四基】 松安寺(黄檗宗)は置塩城主四代目赤松義祐が赤松家の菩提寺として建立したものとされるが、昭和50年頃に倒壊し、現在は基壇等が残る。 境内の北西隅に、三代目城主赤松晴政とその妻(ヵ)及び赤松義祐の供養塔とされる五輪塔が三基、義祐が建立したと伝えられる地蔵菩薩立像が一基あり、これらは姫路市の文化財に指定されている。 北側より義祐の五輪塔、地蔵菩薩像、晴政の五輪塔、晴政の妻(ヵ)の五輪塔と並ぶ。 義祐の五輪塔は、高さ1.4mで、地輪に「松安寺殿前左京兆永岳性延大禅定門、天正四年(1576)丙子二月十五日」の銘がある。 晴政の五輪塔は、高さ1.4mで、各輪に梵字が刻まれ、地輪に「常照院殿前左京兆天柱性凞大禅定門、永禄八乙丑年(1565)正月十六日」の銘がある。 常照院性凞は晴政の法名で、紀年日は晴政の命日である。 晴政の妻(ヵ)の五輪塔は、高さ1.42mで、各輪に梵字が刻まれ、地輪に「弘徳院殿俊□妙賢大禅定尼、弘治二年(1556)十月八日」とある。 平成21年3月 姫路市教育委員会 姫路市文化財保護協会 北側から。
赤松義祐の五輪塔。 地輪に説明板に書かれている文字が刻まれていると言うが… 読めなかった。 義祐が建立した地蔵菩薩立像。 赤松晴政夫妻の墓。 こちらの地輪にも説明板に書かれている文字が刻まれていると言うが… 読めなかった。 何となく薄気味悪かったので、松安寺跡を後にしました。 |
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2013年02月24日
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