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登城日 1回目 1993年頃 2回目 2011年 4月 2日(土)晴のち曇 難易度 ☆ 場所 奈良県奈良市法蓮町1416-1 信長も嫉妬したと云う城です。 詳しい地図で見る 【多聞城の概要】 松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115メートル、比高30メートルの山に築城された。 城には多聞天が祀られていたため多聞山城と呼ばれ(多聞城とも)、現在でも城跡の山は多聞山と呼ばれている。 東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和支配の拠点となった。 城内には御殿などの豪華な建築が建ち並んでいたが、中でも四重天守(四階櫓とも)は、安土城をはじめとする近世城郭における天守の先駆けともいえる。 その様子は、宣教師ルイス・フロイスによってヨーロッパにも伝えられた。 江戸時代に記された『和訓栞』(谷川士清著、1777年 - 1887年)では天守の始まりを安土城とするが、『甲子夜話』(松浦静山著、1821年 - 1841年)では多聞山城を挙げている。 壁は白壁、屋根は瓦葺で、石垣も用いられていたようだ。 塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりであるとされ、『和事始』(貝原好古著 1696年)には、「多門 今世宅外の長屋を多門と云、松永弾正久秀和州志貴の毘沙門堂の上多門の城を築き、長屋を建しを、後世是を法として、多門と号く。」とある。 このように先駆的な要素を併せ持った城で、中世の城郭様式から脱し、その後の近世城郭に移行する過程の城郭発達史における重要な城であったと位置づけられている。 永禄3年(1560)に築城開始。永禄4年(1562)には久秀が入城した。天正元年(1573)、久秀は15代将軍足利義昭と同盟し織田信長に反旗を翻したが、圧倒され信貴山城に立て篭り、ほどなく降伏。 多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入った。翌2年(1574)、信長が検分のため多聞山城に入城。 信長が正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を切り取ったのはこの折である。 天正4年(1576)に信長は筒井順慶を大和の守護に任じ、多聞山城の破却を命じる。 石材の多くは筒井城に用いられ、更に郡山城にも移されたという。 天正5年(1577)、久秀は再び反旗を翻したが信貴山城で自害した。 現在の城跡は奈良市立若草中学校になっている。 周辺には多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。 (wikipediaより抜粋) 若草山より見た多聞山。
多聞城跡へはJR奈良駅または近鉄奈良駅から奈良交通バスに乗り、手貝町下車。 東大寺転害門まで戻り、 案内標識に従い、右折し一条通りを西へ進む。 少し歩いて、また案内標識に従い右折。 今度は北へ進む。 まずは、若草公民館へ立ち寄るべし! 狭い廊下の壁に多聞城の説明が貼ってあります。 説明。 多聞城復原想定図。 多聞櫓に付属してこんな立派な櫓が建っていたとか。 また、ここではこのような案内図が貰えます。 佐保川を渡る。 堀の役目をしていたのでしょう。 川を渡り坂を登ると若草中学校。 校門が城っぽいデザイン。 失礼しま〜す! と言ってちょっと入ってみる。 校門脇には石垣に使われた石仏がずらり。 供養碑。 多聞城から見た東大寺大仏殿と春日山。 階段を登って見てみたいなぁ〜 校内には土塁が僅かに残るというが、見ること出来ず、城址碑のみ撮影して退散。 しょうがないので、案内図片手に多聞山をぐるっと廻ってみる。 橋まで戻り東へ。 玉鐵稲荷神社。 曲輪に見えた。 若草中学校と運動場の間の道。 多聞城の堀切という。 石がごろごろ。 堀切の道を先へ進む。 通り過ぎて振り返る。 多聞山の北側は窪地になっていて、天然の堀のようでもある。 北側の山から多聞山を見る。 かつてはこんな風に見えたのかな。 多聞山を北から見上げる。 こちらは櫓台のようにも見えた。 聖武天皇陵西側の道。 石垣が… 公園でした。 この付近にあった東大寺の末寺だった眉間寺の堂塔の礎石が並べてありました。 公園から聖武天皇陵を見上げる。 柵がしてあって鹿も侵入禁止。 眉間寺遺跡の碑。 振り返る。 こちらは堀切ではないのかな? 西側の山には奈良地方気象台がある。 佐保山保育園。 ごくろうさまです! 聖武天皇陵へ。 この辺りの鹿は若草山の鹿と違い人に慣れていない。 せっかく鹿せんべいを持ってきたのですが、すぐ逃げてしまう。 聖武天皇陵。 天皇陵も多聞城の一部として使われた。 隣の光明皇后陵。 写真が上手く撮れませんでしたが、聖武天皇陵と光明皇后陵の間にも堀切があるように見えました。 一周しました。 肝心な部分は中学校と天皇陵なので立ち入ることが出来ず、遠くから眺めるしかないのが残念でした。 |
城
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(もどる) また、本郭西側の空堀から。
本郭土橋を振り返る。 空堀を振り返る。 本郭北側の空堀。 左側は出丸の土塁。 先は草茫々で進めなかった。 本丸北側空堀を振り返る。 本郭から見下ろした出丸。 出丸の様子。 土塁がめぐっている。 出丸から見た本郭。 出丸の土塁には石がありました。 かつては石垣でもあったのか? 土塁に登ってみる。 高さは1mくらい。 下にも曲輪がある。 竪堀を下りる。 出丸下の曲輪。 道を進むと名阪国道に出る。 名阪国道から見た福地城。 東から見ていることになる。 道は曲輪を削って造られた。 近くの伊賀サービスエリア。 ちょっと寄り道して物資調達。 徒歩で来た人はいないだろう。 車の人はここに駐車しても福地城を見学出来る。 名阪国道によって福地城の削られた南東部分。 本郭下南側の曲輪にある「伊賀の小屋くみの家」。 会席料理の店らしい。 本郭を見上げる。 池もある。 今度は、福地城下の居館へ行ってみる。 高い土塁が見える。 高さ4mくらいある高い土塁。 ここは虎口かな? 空堀がぐるっとめぐっている。 居館空堀の北東隅付近は竹藪になっていて、 北側と、 西側は藪が凄過ぎて行けなかった。 居館跡は畑になっている。 居館跡から見た東側土塁。 やっぱり高いなぁ〜 これで居館跡も見たので、福地城を一周しました。 福地城を後にしようと思ったのですが… 南側の細長い山も気になる。 周囲に山は無いのに、隣接した山を放っておくだろうか? 平成22年度バンブーバスターズ事業によって見易くなった。 露わになった石垣。 段々になっていた。 これは福地城と関係あるのだろうか? 虎口っぽく窪んだ地形もありました。 山の上部。 土塁っぽく見えるけどなぁ? 気のせいかな? 城下の萬寿寺。 福地氏の祈願寺で、一族の松尾氏の菩提寺。 本尊の地蔵菩薩坐像は国の重要文化財。 境内に松尾芭蕉の墓碑がある。 (墓は滋賀県大津市の義仲寺にある。) 近くには松尾芭蕉生誕の地があるという。 行ってみる。 説明板。 周囲の家々の表札は松尾姓でした。 案内板に役場前に松尾芭蕉の像があると書いてあったので大和街道をてくてく歩いて行ってみた。 案内板には隣接した信号1つ分と書いてあったのですが… 隣りの信号まで2kmはあったと思います。 騙されました。 結局、柘植駅の隣りの駅である新堂駅まで歩いたことになってしまいました。 誰もいない無人駅だとばかり思っていたら、ホームに改札があり駅員がいました。 ビックリです。 長いホームには不釣合な1両編成の列車にのってのんびり帰りました。 帰宅後に知ったのですが、この新堂駅周辺には小さな城が隣接してたくさんあるそうです。 知っていたら帰れなかったかも? でも、また来ます。 |
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登城日 1回目 2004年 8月 晴 2回目 2011年 2月 6日(日)晴のち曇 難易度 ☆☆ 場所 三重県伊賀市柘植町7423 松尾芭蕉の祖先、福地氏の城です。 詳しい地図で見る 史跡『福地城跡』 福地城は西に石垣の表門をもち、四方土塁の掻揚式の城である。 本丸内部には、石蔵跡や井戸が残り周囲には、館跡・堀跡が現存する伊賀随一の中世の城跡である。 昭和43年3月に県史跡に指定された。 城主は福地伊賀守宗隆で、「満済准后日記」に日置、北村と共に柘植三方と呼ばれ、当地方の国人であった。 芭蕉翁の先祖は福地氏の一族であるので、この城跡を芭蕉公園と名付け句碑及び生誕碑を建て後世にとどめることにした。 最寄駅はJR関西本線柘植駅。
京都方面からはJR草津線の終着駅。 旧国道25号線を歩く。 30分くらい歩いてようやく福地城が見えて来ました。 「←芭蕉公園」「←福地城跡」の看板のある交差点を左折。 土塁のようなものが見えて来たら左折。 土塁のようなものの上には、「芭蕉公園 福地氏城」、「地蔵菩薩坐像(萬寿寺)」の表記。 真ん中は萬寿寺へ。 登城道は右。 萬寿寺を過ぎると福地城です。 縄張図。 ←が北。 (中世城郭事典より) 池跡。 その上に芭蕉翁360年を記念して作られたモニュメント。 地元の小中学生が詠んだ俳句が書かれたレンガが敷き詰められている。 城址碑。 今は城址碑右脇の階段を進むが、本来は左脇の曲輪(道)から登る。 道を進むと右に登る階段があります。 階段を登る。 虎口に石垣が残る。 目の前に見える石垣は後世のもの。 虎口を振り返る。 登ると小さな曲輪がある。 本郭虎口を見る。 進むと本郭下の空堀が見えました。 石垣の表門。 本郭の様子。 「芭蕉翁生誕之地」の碑。 柘植町内に生誕地があるがここでは無い。 本丸の周りを高い土塁が廻る。 本丸にある井戸。 覗いて見ると現役だった。 土塁の一角にある石蔵跡。 土塁上から石蔵跡を見る。 土塁を一周してみる。 土塁から表門を見る。 土塁上の様子。 土塁上から本郭を見下ろす。 土塁上から空堀を見下ろす。 土塁を進む。 福地城跡の南東を横切る名阪国道を見下ろす。 名阪国道によって福地城の南東部分が削られてしまった。 土塁の南西隅は一段高くなっている。 隅櫓があったと思われる。 隅櫓付近から表門を見下ろす。 一周しました。 本郭を後にしました。 次は本郭周辺を見てまわります。 (つづく) |
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登城日 1回目 1992年春 2回目 2010年12月30日(木)晴 難易度 ☆ 場所 埼玉県さいたま市大宮区寿能町2丁目155番地 最寄駅は東武野田線大宮公園駅です。 この辺りは「見沼たんぼ」という沼地でした。 見沼たんぼの縄文時代は東京湾の入り江でした。 弥生時代から江戸時代初期までは東京湾と切り離された大きな沼地や湿地帯となりました。 戦国時代に沼地の西側に寿能城が築かれました。 三代将軍徳川家光は、伊奈半十郎忠治に命じ水田確保の為の灌漑用水池を造らせました。 そして、八代将軍徳川吉宗は、井沢弥惣兵衛為永に新田開発を命じました。 この時、「見沼たんぼ」となり、現在に至ります。 昭和22年(1947)の航空写真。 田んぼに突き出た部分が寿能城出丸です。 南北に逆くの字状に流れている見沼代用水の左側に寿能城がありました。 行ってみる。 大宮公園駅の南西へ行くと南北に通っている産業道路に突き当ります。 少し南へ歩くと交番があります。 この付近の地名は寿能町2丁目です。 交番の脇に「壽能城址」と書かれた碑が建っています。 実際、この付近も寿能城の城域と思われます。 さらに東へ進んで行きます。 戦前までは土塁が残っていたとのことですが、今は団地や住宅地となっていて、とても城跡とは思えません。 その先はゆるやかな下り坂となっていました。 坂を下った辺りに寿能公園があります。 ここに寿能城跡と書かれた案内板があります。 公園の様子。 公園の奥に櫓台跡といわれる所があります。 櫓台跡の上は、城主だった潮田出羽守源資忠の墓があり手前に説明板があります。 説明板。 【寿能城跡】 ここは寿能城本丸の跡と伝える。 寿能城は潮田出羽守資忠の居城である。 資忠は岩槻白鶴城主太田資正の第四子で、母方潮田家をつぎ永禄3年(1560)ここに築城、大宮・浦和・木崎寺を新領とした。 城地は東西約872m、南北約436mあり、見沼、沼沢をめぐらした要害で、東方に突出した小高い所を出丸と呼び、今も寿能という小字名を残している。 資忠は小田原の北条氏に属し天正18年(1590)長子資勝とともに小田原にろう城し奮戦したが、4月18日父子ともに討死し家臣北沢宮内等が守備した当城も同年6月豊臣勢の火※にかかって落城した。 墓石は資忠の没後50年の命日に6代の子孫潮田勘右衛門資方が、弟資教にしるさせたものである。 大正15年県史跡に指定されたが、太平洋戦争中に高射砲陣地として雑木林は開墾され、※また新市街を現出するに至り、その一部を市の小公園として永く保存することとなった。 (※は判読不明箇所) 東側にも説明板と案内板があります。 説明板。 【寿能公園】 ここは寿能町2丁目です 寿能公園一帯は、かつて氷川神社、大宮公園から続く松林におおわれた緑豊かな地域でしたが、県営寿能住宅の造成などで松林が切り開かれ、住宅地に生まれ変わっています。 当地は今から400年以上も昔、戦国時代の永禄3年(1560)に潮田出羽守が居城した寿能城の跡地で、北中学校付近までが城域だったといわれています。 築城の30年後に豊臣秀吉の軍勢によって落城、その土塁は、周辺が宅地化されるまで残されていました。 園内にはゲートボールを楽しむ格好の広場となっておりボールを打つ音がよく聞こえてきます。 散歩コースは見沼代用水西縁に沿って続き、南は大宮第二公園、北は御嶽社、土呂町の地蔵堂、市民の森、見沼グリーンセンターへと続いていきます。 さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課 この説明板によると、大宮公園駅の南側はすでに寿能城域だったと云う。 産業道路沿いの城址碑のある交番を少し南下した歩道橋の下に土塁っぽい土盛りが見られました。 ひょっとしたら、寿能城の土塁跡かな? 付近には見所が沢山あります。 櫓台跡から公園を見る。 公園を出て、今来た道を振り返る。 ちょっと道草。 脇の家の玄関。 豚が乗っていました。 玄関脇にレトロなポスト。 東へ行くと見沼代用水があり、潮田橋が架かっています。 説明板。 【潮田橋】 ここは寿能町2丁目です 見沼代用水西縁は、江戸時代半ばに8代将軍徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、享保13年(1728)に利根川の水を現在の行田市下中条から引いてつくった農業用水です。 現在は、周辺の水田が減少したため飲料水としても利用されるようになり、大宮・浦和市境から荒川へ送水されています。 「潮田橋」は、戦国時代の終わり頃、当地にあった寿能城の城主・潮田出羽守資忠の名に因んで付けられたと思われます。 寿能城は、永禄3年(1560)に岩槻城の支城として築城されますが、天正18年(1590)に小田原攻めの豊臣秀吉の軍勢に攻められ落城します。 橋の西方80mにある寿能公園は、城域の一部であるといわれ園内には潮田出羽守資忠の墓碑が建てられています。 ここから東方は、城の「出丸」と呼ばれ見沼の低地に突き出すような地形になっています。 約150m上流の寿能上橋を右へ進むと芝川を越え、大和田町へ入ります。 坂を上った一帯は、市内でも最も標高の高い場所で、寿能城・岩槻城と結びつきの強かった大和田陣屋がありました。 寿能城を中心とする当地周辺は中世の大宮の軍事拠点といえましょう。 現在は、大宮第二公園、大和田公園(野球場・プール・テニスコート)、市民体育館などの整備が進み、球場の北側は夏の花火の会場となるなど広く利用されています。 さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課 潮田橋を渡ると出丸域となります。
見沼たんぼに造られた大宮第二公園。 その脇に出丸が微かに残っています。 手前の窪んだ所が堀跡のようです。 出丸内の様子。 高射砲陣地が造られる前はこのような雑木林の中に土塁が廻っていたのでしょう。 微かに土塁があるような… 18年前に来た時は全く解らなかった。 だいぶ城を見る目が上達しました。 出丸跡を後にしました。 帰りは大宮駅から帰りました。 産業道路を南下、旧国道16号線との交差点。 ここは「堀の内」 居館でもあったのかな。 大宮駅近くの大宮区役所。 その脇に小さな稲荷神社があります。 名は「倉屋敷稲荷社」 由緒書。 名は寿能城の倉屋敷に由来すると云う。 境内の様子。 本殿。 寿能城倉屋敷の地から中山道付替えの際に現在地付近へ遷座。 大宮市役所(現区役所)が建設時に少し南へ移動したのが現在地と云う。 やがてすっかり日没。 寿能城を後にしました。 縄張が全く解らなかったのが残念。 どんな城だったのだろう? |
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登城日 山頂部 1990年 春 晴 山麓部 2005年 8月 7日(日)晴 難易度 ☆☆ 場所 兵庫県佐用郡佐用町平福
山城ファン憧れの城。 江戸時代初期にあった天守が霧の上に浮かんだ偉容から別名を雲突城とも呼ばれた。 詳しい地図で見る 【利神城の概要】 南北朝期に、赤松一族の別所敦範が利神山に山城を築いたのは貞和5年(1349)、楠木正行が四条畷に戦死した翌年です。 以来、赤松一族の拠点として約二百年を経て、慶長5年(1600)関が原の戦のあと、播磨52万石の領主池田輝政の甥、池田出羽守由之が平福領2万3300石の領主となりました。 由之は利神山上に5年の歳月をかけて広壮な城郭を造営し、山麓には城主屋敷、武家屋敷を配し、さらに、街道沿いに町人地を設けるなど、城下町の建設に着手しました。 利神山上の三層の楼閣は、あたかも雲を衝くがごとき威容から「雲突城(うんとつじょう)」と呼ばれました。 山頂(標高373メートル)に登れば、本丸、二の丸、大坂丸などの石垣群が今も昔の姿をしのばせていますが、登山道が荒廃しているため残念ながら登ることはできません。 (佐用町観光情報発信局HPより) 山麓から見た利神城。 石垣がちょこんと山頂に載っている。 まるで帽子を被ったみたい。 登りたい… しかし、登城口に 「利神城跡は、城郭の一部が破損し、大変危険な状態となっていますので、登山はご遠慮ください。 佐用町」 と書いてあった。
せっかくここまで来たので何とか登りたかったのですが、利神城が傷んでしまうことになるので、泣く泣く自粛。 20年前に登った時を思い出す… 縄張図 (ひょうごの城紀行下巻より) 利神城古図 この頃はまだ智頭急行は開通しておらず、未成線の線路を潜って登城開始。 (開通は平成6年(1994)12月3日) 登城途中に利神城を見る。 登城道はV字型に曲がっていて、途中NHKのアンテナがあった記憶がある。 しばらく進むと視界が開け、三の丸に到着。 三の丸から見た利神城。 手前の石垣付近に城門があった。 石垣の左側部分が大阪丸。 正面頂上が本丸天守台。 たぶん本丸石垣だと思う。 本丸天守台。 ここに三層の天守閣が建っていた。 これらの遺構は赤松氏のものではなく、慶長5年(1600)に城主となった池田由之が修築したもの。 利神城は、姫路城の隠し砦的存在だった。 池田由之は、備前岡山藩と因幡・伯耆鳥取藩池田氏の嫡流であり、またこの由之の孫が大石良雄(内蔵助)の母だそうです。 池田由之は、慶長14年(1609)に備前国下津井城へ加増転封。 この時、三層の天守等は壊され、その後廃城となったようだ。 最後に、20年前に山麓から見た写真。 写真ではよく解らないが、今(といっても5年も前ですが…)よりももっと石垣がはっきりしていたと思う。 だいぶ傷んでしまったのではないでしょうか。 この頃はデジカメやパソコンは無く、24枚撮りの「写ルンです」を片手に登城。 途中、龍野城、上月城、苔縄城へも立ち寄ったので、一城当たり数枚しか撮れなかった。 今思えば勿体ない。 5年前に戻る。
山麓には居館が建ち並んでいた。 居館の石垣が随所に残る。 この石垣は桝形虎口の石垣のようだ。 別角度。 利神城を後にする。 佐用川を渡る。 佐用川の西岸には平福の城下町がある。 この赤茶色の土蔵と川屋敷が建ち並ぶ川端風景も見所。 案内図。 利神城廃城後、平福の町を支配した平福陣屋。 陣屋の表門が現存。 せっかく来たのに、利神城へ登れないし、町を歩けば猛暑でクラクラ。 次の智頭急行がやって来たので、早々に退散しました。 何と、この利神城は史跡指定されていないとのこと。 早急に保存と修復を望みたい。 そして、いつの日かまた登りたいなぁ〜 |






