三日月の館

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登城日 1回目 2000年頃 晴
      2回目 2011年 4月17日(日)晴
難易度 ☆
場所   兵庫県養父市八鹿町八木

三木合戦後の別所氏の居城

石垣の城と土の城の2つがあり、共に国指定史跡です。

詳しい地図で見る

但馬八木城は、JR山陰本線八鹿駅から西約7kmの所にあります。
村岡・鉢伏方面行きの全但バスに乗り下八木バス停下車。
国道9号(山陰道)の信号のある交差点に「史跡 八木城址」の標識があります。
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標識のある交差点に石碑。
「鎌倉時代」と書いてある。
但馬朝倉城主朝倉高清(越前朝倉氏の祖先)が、承久3年(1221)に次男重清に八木を分け与えたのが八木氏の始まりと云う。
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3つある登山口のうちの一つ、下八木登山道を登って行きます。
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登ってすぐに説明板があります。
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説明板
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【但馬・八木城】

八木城跡
八木町の背後にある西から東に延びる細い尾根上には、八木城と八木土城の2つの山城があり、南北朝時代(1333〜1392)のはじまりという。
八木城は、標高330mの城山に造られた山城で、南北260m東西340mに広がる大規模なものである。
本丸には、山石を荒割りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592〜1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を造っている。
さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術を見ることができる。
縄張をみると、尾根を平坦にした曲輪を造り、東に6段、南に5段、北に3段というように山全体に城郭を配置している。
八木城は、戦国時代の八木氏の本城であり、また別所氏が改修した豊臣時代の城郭である。
八木城は、1万5千石の八木藩の貴重なシンボルであり、八木町は初期城下町として貴重な町並みを伝えている。

八鹿町観光協会

八木城の石碑。
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【但馬八木城址之碑】

八木城は南北朝時代に始まる八木氏の山城で、標高330mの城山にあり、 本丸には高さ9.3mの穴太流の石垣が残る。
八木氏は室町時代に但馬守護の山名氏に属して活躍し、四天王の一人に数えられた。
八木氏第15代の八木城主は八木但馬守豊信であったが、天正5年から8年にかけて、秀吉の弟羽柴秀長に攻められて落城する。
天正13年(1585)豊臣秀吉から別所重棟が八木城主に任命され、別所吉治と続くが、慶長6年に丹波に写され廃城となる。

平成4年4月吉日
八木城址保存会

八木城歴史の森説明板。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_38?1383568654_

少し登って、矢印の所を…
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曲がる。
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獣除けの金網4本を外して中へ。
「熊出没注意」の看板。
ひぇ〰
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入ったら金網を元に戻しましょう!
もう後へは引けません。
前進あるのみです。
ここでポストの中のノートに登山記録を書き込み、パンフレットを貰う。
パンフレットは縄張図つきなので必ず貰うこと。
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急いで進む。
クズ草原(群落)。
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ネザサ草原(群落)。
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スギ・ヒノキ林(群落)。
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約10分登ってあと650m地点。
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石積みかな?
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石積みだった。
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約30分登ってアベマキ・コナラ林の中にあるあずまや。
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中八木登山道との合流地点。
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ここからは竹林の中を進む。
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上八木登山道との合流地点。
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約35分で八木城跡に到着!
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まず、八木石城縄張図。
(「ひょうごの城紀行上巻」より)
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八木石城想像図。
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東端の秋葉さん。
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秋葉さん上の曲輪。
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秋葉さん上の曲輪から三ツ顔さんのある曲輪(三の丸)を見る。
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三ツ顔さん。
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三ツ顔さんから見下ろす。
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三ツ顔さんから三の丸を見る。
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三の丸の西端。
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三の丸の碑。
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上の曲輪から三の丸を見下ろす。
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先へ進む。
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もう一段上の曲輪が二の丸。
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二の丸の碑。
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今来た曲輪を振り返る。
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二の丸斜面に石積み?
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動いた!
(腰抜かしそうだった
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また石仏。
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卒塔婆。
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二の丸から本丸枡形虎口の櫓台石垣を見る。
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南西から算木積み石垣を見る。
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近づいてみる。
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本丸南西面高石垣を見る。
素晴らしい!
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誰か登ってたのかな?
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高くて立派ですね〰
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虎口へ戻る。
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二の丸を見下ろす。
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本丸。
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本丸から八木土城へ向かいます。
本丸枡形虎口。
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脇に説明板。
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【八木城の概要】

鎌倉時代初期八鹿町朝倉に住し豪勇世に聞こえた朝倉高清が、この西方の峯に築かれていた土城の城主閉伊十郎行光と戦い勝利をした後、三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれます。
以来豊信まで15代およそ400年にわたり一大勢力を保持しました。
南北朝時代、関東から但馬に入り出石を本拠として全国にその名を覇せた山名氏の傘下に入り、代々山名四天王の一人として重きをなしました。
戦国時代、織田信長の命を受け中国の毛利攻略に向かった羽柴秀吉は、姫路城を拠点として先ず毛利勢の及ぶ播磨・但馬を平定しましたが、八木城も武運つたなく落城しました。
時、天正8年(1580)3月であったといわれます。
15代豊信を最後に八木城はここで終わりを告げました。
天正13年(1585)秀吉の配下であった別所重棟が新たに八木城に入り、子吉治の2二代わずか15五年の間在城しました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに西軍に属した吉治は敗戦で所領を没収されましたが、徳川家に仕える春日の局が伯母にあたるよしみをもって許され、翌年丹波北由良城へ移封されました。
それ以来八木城は廃城となり400年にわたる長い歴史に幕を下ろしました。
八木氏は廃城後徳川家に仕え、その直系は東京に在住、現在に至っております。

八木城址保存会

本丸跡の碑。
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本丸南西面高石垣上部に石塁。
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石塁。
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石塁上部から天守台方向を見る。
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天守台へ。
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また石仏。
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石仏の後方が一段高くなっている。
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さらに奥にもう一段高くなっている所が天守台。
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天守台から本丸を見る。
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天守台から本丸南西側を見る。
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天守台から本丸北側を見る。
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天守台から下って、振り返る。
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石垣はしのぎ積み。
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本丸北面に残る石垣。
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さらに500m奥に八木土城。
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八木土城へ向かいます。
つづく
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雲龍寺にあった縄張図。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_32?1376789576_
雲龍寺南側の外堀跡。
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城外に建つ月輪寺。
名前に惹かれて行ってしまった…
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月輪寺縁起によると、山号を高野といい、月輪の中に十一面千手観音が出現したことから命名された。
三木合戦の際に消失し、その後再建。
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山門。
移築城門だったらなぁ〜
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本堂。
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文殊堂。
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説明板。
三木金物業界の守り本尊だそうです。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_33?1376790381_
三木鬼追い式が行われる月輪寺と大宮八幡宮の東にあった宮ノ上要害を目指します。
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登って行く。
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宮ノ上要害は、大宮八幡宮の東に聳える八幡山に築かれていたが、今は三木市浄水場が築かれており、往時を偲ぶものはない。
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東屋のあった所が僅かに曲輪っぽかったかな。
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宮の上要害と三木城の間にあった鷹の尾城へ向かう。
鷹の尾城の東側は三木市役所の敷地となっている。
よって、すでに消滅。
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市役所の西、市民体育館の裏へ。
この辺りだろうと思い、雑木林へ入る。
体育館にいる人々は不審に思うだろうなぁ〜
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土塁に見える。
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土塁だった…
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この辺りは鷹の尾城の本郭のようだ。
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北側の土塁は消滅している所があるが、結構良好に残っている。
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もう少し引いてみる。
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土塁上部。
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土塁の南側。
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文化会館の所が東端だったらしい。
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文化会館の東。
この辺りが搦手門跡。
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三木城を後にする。
ぐるーっと廻って約3時間でした。
三木上の丸駅の案内板。
「鷹尾城跡 0.5km」と載っていました。
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現地に案内板があったかな?
また三木上の丸駅から神戸電鉄に乗って帰りました。
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遺構はほとんど残っていませんが、今も悲話が語り継がれている三木城でした。

(おまけ)

今では三木へ鉄道で行くには神戸電鉄しかありませんが、平成20年(2008)まではJR加古川線の厄神駅から三木鉄道が走っていた。
終着駅の三木駅。
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駅前のロータリー。
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駅舎は三木鉄道ふれあい館となっている。
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中では、三木鉄道存在時に使用されていた物品・写真を展示。
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改札。
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ホーム。
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逆から見る。
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かつての様子。
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厄神方面を見る。
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出発の入換信号機。
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三木鉄道の遊具。
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ポイント。
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逆から見る。
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ここから先は未整備の廃線跡。
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神戸電鉄もバスに乗客を取られ赤字で、廃止の話があるとか。
鉄道は地図に載るが、バスは載らない。
鉄道が無いと、気軽に行こうと思わなくなる。
鉄道は大事なんだけどなぁ〜
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本丸・二の丸現況略図をもう一度。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_27?1376572392_
本丸から二の丸(南構)を見る。
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下って行くとナメラ商店街。
水門口があったらしい。
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二の丸跡の釜城館。
三木城は別名「釜山城」と呼ばれる。
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古い建物は、昭和17年(1942)に建てられた旧三木実科高等女学校校舎。
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埋蔵文化財を展示しているそうです。
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二の丸跡には他に、図書館と堀光美術館がある。
この場所から倉庫跡が発見され、21個の備前焼の大甕が発掘された。
発掘された大甕の復元品が図書館に展示されている。
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二の丸を後にする。
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二の丸から本丸南端を見る。
坂を下りていくと、三の丸から大手門跡へとつづく道。
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二の丸から東へ向かう。
窪んでいる地形がある。
沼があったらしい。
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段差のある地形。
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道が二又に。
ここから東が新城かな。
そしてこの辺りに矢倉があったのかも。
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新城は別所吉親の居館があった所で、昭和35年(1960)までは土塁や堀が残っていたらしいが、宅地化で消滅。
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昭和30年の現況図。
(「探訪三木合戦」三木市観光協会著より)
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空堀跡かな。
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新城の東にあった東の丸跡。
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東の丸の東側。
空堀があるような無いような…
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東の丸から南を見る。
正面に見えるのは三木市役所。
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東の丸東側の坂道。
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東の丸のさらに東側に平山丸があった。
現在、平山丸は神戸電鉄の切通しで分断されている。
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平山丸の北側には正入寺が建てられている。
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説明板。
平山丸には別所治定の居館があったらしい。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_29?1376752572_
復原図を拡大。
この図だと、本丸南側の二の丸が西の丸となっており、二の丸は新城や東の丸の南にあったことになっている。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_30?1376752572_
境内にある供養塔。
左から、伊木忠繁の母、伊木忠繁、池田利隆。
伊木忠繁は姫路城主池田家の筆頭家老で、三木城最後の城主。
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平山丸から三の丸を見下ろす。
遠くの繁みは本丸。
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平山丸の東端。
矢倉があった辺り。
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三木城の東端を流れる二位谷川。
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南へ登って行くと文化会館に突きあたる。
この辺りは馬場。
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馬場の中心に市役所。
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市役所は三木城を模した外観で「平成三木城」とも。
しかし、そう見えないのですが…
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市役所北側の駐車場から西側にかけて、二の丸と表記されている曲輪があった。
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堀跡かな。
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堀跡?の西側の池。
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池から西を見下ろす。
この堀跡と思われる東西のライン上は建物が少ない。
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本丸の南、二の丸(南構または西の丸)の南側付近。
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南へ行くと雲龍寺。
黒門跡。
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山門。
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説明板。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_31?1376787528_
境内図。
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本堂。
当時からこの場所にあった。
ここも三木城内。
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境内の南側にある別所長治夫妻の首塚。
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拝殿脇の石碑に由緒記があるが、掠れて読み難い。
よって、拝殿上部の由緒記の方が比較的読み易い。
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首塚。
落城後、安土に運ばれた別所長治の首を当寺七世安室春泰和尚が安土から持ち帰り、照子夫人と共に寺内に埋葬し弔ったと云う。
毎年1月17日には、籠城時に飢えから城内の藁まで食べたとの言い伝えに由来し、藁に見立てた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会が行われている。
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首塚の西側に建つ由緒記。
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この石垣は、三木城外堀にあった石垣を使用。
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雲龍寺北側の堀跡から鷹の尾城を見る。
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最後に三木城の南側へ向かいます。
つづく
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三木城へは、JR神戸駅近くの新開地駅から神戸電鉄の乗って行きます。
約50分乗って、最寄駅三木上の丸駅下車。
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駅は本丸北側直下に位置する。
駅名は上の丸だが三の丸に位置する。
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東西両側から本丸へ行けますが、やはり東側から向かうこととしました。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_25?1376403185_
線路を潜りナメラ商店街へ。
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すぐに三木城への階段。
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階段を登れば本丸ですが、ちょっと寄り道。
シャッター通りのナメラ商店街。
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ナメラは「滑原」と書き石列が出土。
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説明板。
この辺りは中嶋丸と呼ばれていた。
三木城落城後にはこの辺りは家臣の屋敷が建ち並んだとか。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_26?1376403731_
商店街付近図には殿町と書かれている。
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想像図。
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滑原から見た三木城本丸。
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中嶋丸の別所長治。
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三木城の西北を流れる美嚢川を渡ってみる。
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対岸から見た三木城。
台地の先端に位置する堅城。
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白いコンクリート壁は別所長治公400年を記念して造られた。
往時はこんな壁ではなかったはず。
しかし、今ではすっかり三木城跡のシンボルになっている。
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それでは、城山橋を渡って三木城本丸へ向かいましょう!
ナメラ商店街からの登城道は、先程ご紹介した階段と、本丸に鎮座する上の丸稲荷神社参道の階段と、
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本丸と二の丸との間の空堀跡の道がある。
この辺りは水門口跡。
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やはり、最初の線路寄りの急階段を登る。
途中で本丸を見る。
こんな絶壁ではなく腰曲輪があったらしいが、コンクリートで固められて往時を偲べなくなった。
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城下を見下ろす。
高い…
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本丸到着!
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登って右手に説明板。
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【三木城址】

三木城は、室町時代の15世紀後半に別所則治によって築かれ、以後別所氏の居城となりました。
天文7〜8年(1538〜1539)に山陰の戦国大名尼子詮久(晴久)、天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏に攻められましたが、落城は免れています。
天正6年(1578)5代目城主別所長治のとき。織田信長の家臣羽柴(豊臣)秀吉の軍に包囲され、1年8ヶ月に及ぶ兵糧攻めに遭い、天正8年(1580)1月17日、城主一族は領民の命を救うために自刃して三木城を開城しました。
その後は、羽柴秀吉はじめ家臣の杉原氏・中川氏などが城主として次々と入れ替わりました。
江戸時代になって、元和2年(1616)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され、元和3年(1617)に幕府による一国一城令により廃城となりました。
このとき、三木城の資材は明石城の建築部材に使用されたと伝えられています。
当時の城の規模は、本丸(上の丸公園)、二の丸(図書館・美術館周辺)、新城・鷹ノ尾城(市役所周辺)などからなり、東播磨随一の要害でした。
また南に位置する雲龍寺周辺も三木城の一角であったと考えられています。
この雲龍寺には別所長治夫婦の首塚があり、毎年1月17日の命日には、長治公を偲んで法要がおこなわれ、兵糧攻めによる飢えから、籠城した兵士が壁土の藁を食べたという言い伝えに習って藁に見立てたうどんが振舞われます。

本丸・二の丸現況略図。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_27?1376572392_
階段を登った所にかんかん井戸。
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説明板。
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かんかん井戸から伝天守台を見る。
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伝天守台北側にその1でご紹介した三木合戦図。
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脇に三木城想像図と説明。
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想像図を拡大。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61661873_28?1376576380_
伝天守台へ。
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伝天守台の様子。
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伝天守台中央に建つ別所長治辞世の句の石碑。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」
心に沁みますね〰
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脇に別所家一族の辞世の碑。
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伝天守台から城下を見下ろす。
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伝天守台から本丸を見下ろす。
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かつてはこんな天守閣が建っていたのだろうか。
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伝天守台を下りる。
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伝天守台南側に設置された別所長治石像。
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本丸南側に鎮座する上の丸稲荷神社。
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本丸中央にも土壇。
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土壇に建つ忠魂碑。
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忠魂碑の根元に残し石。
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本丸東側に位置する上の丸保育所。
この辺りに御殿があったらしい。
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そして、伝天守台は櫓台で、上の丸保育所の北側、別館が建つ辺りに天守があったと記されている縄張図もある。
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天守閣は本丸北東隅にあったのか。
北東隅の場合、有馬へ通じる湯の山街道を見下ろせる。天守があったとされる辺り。
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本丸東側、御殿があった辺りを見上げる。
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ここから北へ下りて行くと三の丸。
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三の丸跡にある本町1丁目交差点。
ここから北へ向かうと二位谷川に架かる大手橋がある。
大手橋から少し西へ行った辺りに大手門があったらしい。
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本丸へ戻る。
本丸の南端に鳥居。
この辺りも御殿跡。
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階段を登ると金物資料館。
三木城の資料が少しあったはず。
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三木合戦後、羽柴秀吉は焼け野原となった三木の町の復興を考え、免税政策をとって四方に散らばった人びとの呼び戻しを図りました。
復興のために集まった大工職人、その道具を作る鍛冶職人が次第に増え、三木の町は活気づいたものの、復興が一段落すると大工の仕事がなくなってしまったため、大工職人たちはやむなく京都、大阪などへ出稼ぎに行くようになった。
そのときに大工が持参した道具の素晴らしさが評判になり、三木は「金物の町」として有名になったと云う。
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金物資料館を避けるように、参道は西へ。
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金物資料館の西隣に金物神社。
昭和10年(1935)創建。
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金物神社の西側に上の丸稲荷神社が鎮座。
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稲荷神社の社殿前に天守閣復元図と別所治定奮戦図がある。
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本丸を南から見る。
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今度は二の丸(南構)へ向かいます。
つづく
登城日 1回目 1990年頃 晴
      2回目 2011年 1月10日(月)晴
難易度 ☆
場所   兵庫県三木市上の丸町

三木合戦の舞台

東播磨守護代別所氏の居城です。

詳しい地図で見る

別所氏は、赤松氏の庶流とされ三木周辺の土豪だった。
文明15年(1483)の真弓峠の戦いに敗北して権威が失墜した播磨守護赤松政則の勢力回復に尽力した別所則治は、その後東播磨八郡の守護代に任じられるほど別所氏を飛躍させた。
明応元年(1492)頃に三木城を築き、以後別所氏の居城となった。
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元亀元年(1570)別所則治の玄孫である長治が5代目城主に就任。
就任時幼少だったことから、叔父の別所吉親と別所重棟が後見人となった。
吉親は親毛利派、重棟は親織田派だった。
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天正5年(1577)に羽柴秀吉が播磨に侵攻し加古川城で軍議を開く(加古川評定)。
秀吉は、それまで織田信長に従っていた別所氏をはじめとする播磨の豪族達は毛利攻めに協力してくれるものと思っていた。
しかし、この時出席した別所吉親は秀吉の傲慢な態度に憤慨し、軍議は決裂。
帰国後、別所氏は反旗を翻し毛利氏へ味方することとなった。
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別所氏は重棟を追放し、三木城の防備を固めて籠城を決めた。
また、神吉城、志方城、高砂城、野口城、端谷城、衣笠城、淡河城などの支城が三木城を支援。
それに対し秀吉は、三木城を兵糧攻めにするとともに、支城から落としていくこととした。
天正6年(1578)4月野口城を攻める。
沼地にあったため攻めあぐねた秀吉は付近に植えられていた青麦を刈り取り、沼地に敷き詰めて平地にして落城させたと云う。
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神吉合戦が起こる。
城主神吉頼定や梶原十右衛門入道冬庵らが奮戦し、1ヶ月以上攻防するも天正6年7月神吉城は落城。
(この頃尼子氏残党が守る上月城へ毛利氏の大軍が攻め掛かる。見捨てられた尼子氏は滅亡し、山中鹿介幸盛は捕えられる。)
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その後、秀吉の大軍は志方城に襲い掛る。
志方城は櫛橋氏の居城で当時の城主は左京亮伊則。
伊則は大軍を目の当たりにしとても支えきれないと観念し落ち延びていったとか。
または、当時の城主は伊定だったとも最後まで奮戦したともあり、はっきりしないらしい。
伊定の娘が、黒田官兵衛孝高の妻だった光(てる)。
この時、中道子山城も落城。
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その後、衣笠氏が守る端谷城も落城。
(この頃、有岡城で荒木村重が反旗を翻し、説得に行った小寺(黒田)官兵衛が幽閉される。)
周辺の支城は落とされた三木城内で、天正7年(1579)2月軍議が開かれる。
志染川の手前で待ち伏せして、囮に釣られて川を渡ってきた秀吉軍に攻め掛ろうと主張する別所吉親。
それに対し、足軽大将の久米忠勝は一気に秀吉の平井山本陣へ攻め込もうと主張。
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天正7年2月、別所長治は平井山本陣へ攻め込み一気に勝負を決することとした(平井山合戦)。
しかし、地の利が悪く敗色が濃厚となってきた別所方は、秀吉勢に扮して志水彌四郎直近が生首を太刀に突き刺し、久米五郎忠勝が生首を手に持ち「大将の見聞を」と本陣へ詰め寄るも討ち取られる。
結局、別所方は長治の弟小八郎治定も討たれる大敗で終わった。
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平井山合戦で敗北したものの、毛利氏からの兵糧の支援は続いており、明石近くの魚住から陸揚げし丹生山を経由して三木城へ搬入していた。
(随分遠回りな気がするが…)
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そこで、秀吉は補給路を断つべく天正7年5月丹生山の明要寺砦を襲う。
多くの僧や稚児が犠牲となり、五輪谷、花折山、稚児ヶ墓山などの名が残る。
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もう一つの補給路であった淡河城へ攻め寄せる。
城主淡河定範は智勇共にすぐれた武将で、外曲輪に無数の菱を撒いて秀吉軍を悩ませ、さらに城へ攻めかかってきた秀吉軍に牝馬を放ち、大混乱に陥った所に攻め掛り秀吉軍を打ち破った。
しかし、最後には城を捨てて三木城へ撤退したと云う。
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天正7年6月13日、平井山本陣にて秀吉の軍師竹中半兵衛重治が陣没。
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丹波では別所長治の妻照子の実家である八上城主波多野氏が滅亡。
ますます孤立した三木城に立て籠もる別所氏は、天正7年9月、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦を実行。
大村合戦では淡河定範が5人になるまで奮戦し、神鉄三木駅近くの八幡の森で自刃したと云う。
(淡河氏は北条氏の末裔だそうです。)
この戦いに後藤将監基国も参戦。
落城前に次男基次を黒田官兵衛に預けたとか。
後藤基次が後に黒田家を出奔し大阪の役で豊臣方として活躍する後藤又兵衛です。
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大村合戦では別所吉親の妻も活躍。
紀州の守護大名畠山政国の娘で勇猛で知られたとか。
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毛利氏と別所氏は、三木城の付城であった平田山砦を襲い、城主谷大膳を討ち取る。
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しかし、大村・平田合戦では戦いに明け暮れ食糧搬入出来なかった。
さらに、10月には備前の宇喜多直家が毛利方から織田方に寝返り、11月には荒木村重が籠もる有岡城が落城。
三木城は毛利氏からの支援が不可能となり孤立無援。
城内の食糧は尽き飢餓地獄に陥る(三木の干殺し)。
天正8年(1580)正月、秀吉は三木城内の支城に攻め掛る。
まずは、6日に別所長治の弟友之が守る宮ノ上要害を攻略。
弱り切った城兵は抵抗出来ずに撤退。
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11日には鷹の尾城を攻略。
あっという間に陥落したとか。
別所友之はかろうじて三木城へ撤退。
残すは三木城本城のみとなってしまった。
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秀吉軍は一気に三木城へ攻め掛る。
しかし、大手門から出撃してきた吉親の妻の反撃に遭う。
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しかし、抵抗もここまで。
別所長治は最期の決断を下す。
城主一族の切腹によって城兵の命を助けるなら開城するという条件を浅野長政へ伝える。
このことを聞いた秀吉はその決意に感嘆し、16日に最期の酒宴のために酒肴を贈る。
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翌17日、三木城内で最期の酒宴。
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別所長治一族の妻子が自害。
この時、子の一人が連れ出され八木城主別所吉治となったとも、後藤基国が匿ってその後帰農したとも。
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城主別所長治は辞世の句を残して弟友之と自害。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば 」
まだ23歳の若者だった。
吉親は首を差し出すのを快しとせず、城に火を付けようとしたところ城兵に討ち取られたと云う。
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三木城落城後、別所長治の首級は秀吉によって安土の織田信長の元に送られた。
その後、雲龍寺七世安室春泰和尚が安土から持ち帰り、照子夫人と共に寺内に埋葬し弔ったと云う。
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また、別所氏の菩提寺だった法界寺(三木市別所町東這田)には別所長治の遺体が埋められたと伝わり、毎年4月17日の追悼法要では、当時の合戦の様子を語る「三木合戦絵解き」が行われている。
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それでは、三木城へ向かいます。
つづく

(おまけ)

平井山の麓のブドウ園の一画にある竹中半兵衛重治の墓。
天正7年(1579)4月、播磨三木城の包囲中に肺の病に倒れた。
秀吉は重治の病状を心配して京都で療養させたが、自らの死期を悟った重治は平井山本陣に戻った。
享年36。
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墓は志染町安福田の栄運寺にもあるらしい。

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