三日月の館

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野田城(摂津国)

登城日 2013年 2月10日(日)晴
難易度 ☆
場所   大阪市福島区玉川4丁目

中嶋の戦いの舞台です。

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【中嶋の戦い】

明応2年(1493)に将軍足利義材を追放(明応の政変)し、自身が擁立した足利義澄のもとで絶大な権力を誇った管領細川政元であるが、実子がいなかったため、三人の養子(細川澄之、細川澄元、細川高国)を迎えたものの、その後継を巡り養子同士三派での権力争いが発生した(永正の錯乱)。
約10年に渡る細川家の内紛に一旦勝利し管領となった細川高国であったが、大永7年(1527)澄元の遺児である細川晴元を擁する阿波勢らに京都・桂川で敗れ近江へ敗走し、高国政権は瓦解。
再び権力を手中に取り戻すべく有力な援軍を探していた。
一方、大永元年(1521)9月に主君赤松義村を暗殺し名実ともに播磨・備前・美作の支配権を奪って戦国大名の道を歩み始めた浦上村宗であったが、その権力の拠り所はいまだ赤松氏に依存する所が大きく、完全に下克上を果たしたとは言えなかった。
援軍を必要としていた細川高国と、高国の力を借りて赤松氏の影響力を廃した支配体制を築きたい浦上村宗の思惑が一致。
細川・浦上連合軍は畿内各地での戦いに勝利し享禄4年(1531)京都を奪還。
最後に細川晴元を倒すべく、敵対勢力の中枢である堺公方府への遠征した。
しかし、阿波から細川晴元への援軍が到着すると状況が一変。
細川・浦上連合軍は一旦天王寺へ引き揚げ、細川軍は中嶋の浦江(現在の大阪市北区、大淀周辺と思われる)、浦上軍は野田城・福島城に陣をひいた。
その後一進一退の戦いが続き、戦線は膠着。
細川・浦上連合軍は播磨守護赤松政祐(義村の子・晴政)に援軍を要請。
赤松政祐は神呪寺(兵庫県西宮市)に着陣する。

中嶋の戦いの際、浦上村宗が陣を置いた野田城はJR野田駅前にあったらしい。
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明治時代の地図を見ると、この辺りの小字は「城之内」。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_111?1361970875_
駅前に建つマンションの前。
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城址碑が建っています。
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側面。
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【野田城】

戦国時代、畿内一円に勢威をふるった三好一党がこの地に砦を築いたが、後に改築され、石山本願寺、ついで織田信長方の重要拠点となった。
字「城之内」と呼ばれたこの辺りがその中心地である。

浦上村宗が陣をひいた時は簡素な砦だったらしい。
この説明は、その約40年後の元亀元年(1570)年に三好三人衆が増築した後の説明だった。
明治時代には田舎だった野田村もビルが林立し、付近を見渡しても城跡らしきものは何も無い。
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しかし、一歩街中に入ると古い建物が残っていたりする。
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街中にある城郭のような太鼓櫓がある極楽寺。
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極楽寺の山門前にも城址碑が建っています。
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側面と裏面。
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【野田城跡】

大坂城がまだ本願寺であった室町時代に野田城〔北は玉川4丁目交差点(旧名城之内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄が城域でその中心地が当地(旧名奥の町)〕を訪れた本願寺第10世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の強化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、21人が殉教された(天文2年8月9日)。
これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当寺極楽寺でその後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っている。

山科本願寺が天文元年8月24日(1532年9月23日)、六角定頼と法華宗徒により焼き討ちされた(天文法華の乱)後、証如は石山本願寺へ拠点を移す。
翌年(中嶋の戦いの2年後)、この地を通りかかった証如はまたもや六角定頼に不意打ちを食らい門徒に守られ辛くも難を逃れたと云う。
山門が閉まっていたので境内の様子は解からなかったが、境内に「21人討死之墓」があり、毎年3月8・9日
に法要が営まれているようだ。
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極楽寺の北に位置する圓満寺。
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説明板。
この寺も極楽寺同様討死した21人の菩提を弔うために建立された。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_112?1361975922_
こちらも山門が閉まっていたので境内の様子は解からなかったが、境内に「21人討死之墓」があるそうです。
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さらに北へ行き、玉川コミュイティーセンターの東側に、
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「二十一人討死之碑」が建っています。
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裏面の説明は一部剥がれていて読めなかった。
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極楽寺へ戻って東へ。
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野田恵美須神社。
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境内の様子。
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由緒書。
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入って東側に手水舎。
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奥に何かの碑。
野田捨???
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社殿。
元亀元年(1570)年に三好三人衆が野田城を増築した後に、当神社は守護神として信仰の対象とされ、三好山城守康長(入道笑岩)が社殿を造営したと云う。
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ここが野田城の東端だったとも。
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旧町名は弓場。
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野田城は三好三人衆によって本格的な城として増築された後、天正4年(1576)、織田信長の猛攻により落城。
石山本願寺攻撃の重要陣地となったようであるが、その後しばらく史料から消え、大坂夏の陣で再び砦として利用されたものの、その後廃城になった。
今では碑がある以外には解からない野田城でした。

(おまけ)

平安時代以前、この辺りは今とは地形が大きく異なり、「難波八十島」という島が点在していたと云う。
福島・堂島・都島・姫島など地名に名残りが残っています。
また、中世から近世にかけての野田は、吉野の桜、高尾の紅葉と並び称される程の藤の名所だった。
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玉川2丁目に鎮座する春日神社。
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野田藤は度々の戦乱に巻き込まれ、また公害などでほとんど無くなってしまった。
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足利義詮の和歌。

 むらさきの雲とやいはむ藤の花 野にも山にもはいぞかかれる

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少しづつ復元されているという。
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野田城の近くに福島城も一緒に築かれたという。
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こちらはどこにあったか不明。
登城日 3回目 2012年 3月18日(月)雲 
難易度 ☆
場所   滋賀県彦根市佐和山町

前回行きそびれた大手門を見に行って来ました。
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彦根駅前の元佐和山城主井伊直政。
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彦根の由来。
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【彦根縁起(神代〜現代)】

「古事記」の冒頭には、太陽を神とする天照大御神(伊勢神宮)が、国生みの神である伊邪那岐の命・伊邪那美の命(多賀大社)の御子として生まれたと記されており、また天照大御神の御子である天津日子根(アマツヒコネ)の命と活津日子根(イクツヒコネ)の命の兄弟神が、悠久の昔にこの彦根の地に鎮座して国造りをしたとするのが、この地方に伝承されている神話であります。
奈良時代、日本最古の法典「大宝律令」を完成させた藤原不比等とその子藤原房前が、永年彦根の地を治めたことにより、平城京にも劣らぬ地方都市がこの彦根の地に造営されていたのであります。
平安時代中期、末法思想の広がりと共に、全国各地に観音信仰が生まれ、現在彦根城のある彦根山(彦根寺)には、金の亀に乗った、一寸八分(約6cm)の観音様がおられたことから、別名を金亀山とも呼び、後に築城された彦根城は、金亀城とも呼ばれております。
また、当時、霊験あらたかな観音霊場として、彦根山参詣ブームを巻き起こし、京都方面からの参詣道は、巡礼街道と呼ばれ、現在も通称として残り往時を偲ばせております。
江戸時代、藤原鎌足の子孫である井伊家が彦根に入り(入府)、初代彦根藩主となった井伊直政公(騎乗姿)は、現在の静岡県引佐町井伊谷にて生を受け、15歳で徳川家康に見出されて以降、武田勝頼との戦いを初陣に、関ヶ原の戦いなどに数々の大功を立て、慶長6年(1601)、18万石を賜わって佐和山城主となりますが、関ヶ原の戦いで島津軍から受けた鉄砲傷がもとで41歳の若さで亡くなりました。
彦根城と城下町は、直継公(途中分家)から二代藩主直孝公にかけ、20年の歳月を経て完成したのでありますが、井伊家中興の祖と言われる直孝公の大坂冬の陣・夏の陣の大功により35万石となり、これより以降、近江の国の政治・経済・文化の中心地として栄えることとなったのであります。
また、東京世田谷の豪徳寺が井伊家の菩提寺となったのも直孝公の時からであります。
彦根の地は誰れ言うともなく「一に大老・二に佐和山殿」として、井伊直弼公と石田三成公を、彦根が輩出した偉人として市民の敬慕となり象徴となっているのであります。
井伊家が彦根の町を開き、平成13年(2001)が、丁度400年の年となり、「彦根開府四百年記念事業の一つとして、彦根市民有志の手により、本石碑が建立されたのであります。

駅前の道を真っすぐ進む。
石のひこにゃんがお出迎え。
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彦根城外堀跡に到達。
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説明板。
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国宝彦根城が見えてきた。
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寄らずに中堀沿いを進む。
京橋から少し行った所にある宗安寺。
この山門が佐和山城の大手門だったと云う。
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碑が建つ。
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山門前には道路拡幅前の礎石が残る。
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説明板。
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せっかくなので境内へ。
本堂。
長浜城の御殿を移築し改造したものとか。
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説明板。
宗安寺は、山号を弘誓山といい京都の百万遍知恩寺を本山とする浄土宗寺院。
元は足利尊氏・直義兄弟によって全国に造られた安国寺を起源とする。
井伊直政が群馬県高崎市の箕輪城主であった時に、正室の東梅院の菩提を弔うために再興されましたが、井伊直政の転封に伴って佐和山城下へ移転。
さらに、彦根城築城に伴い現在地に移転、この時安国寺から宗安寺へ寺号を変えたと云う。
江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所にもなった。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_95?1360762605_
この寺が有名なのは、豊臣秀頼の武将木村重成の首塚があることです。
(この日も山門前で木村重成展をやっていました。)
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首塚。
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境内には血染めのすすきも。
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説明板。
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墓所は大阪府八尾市にあるらしい。
ここに来るまで木村重成のことを知らなかったくらいなので、今日はここまで。
再び佐和山城移築城門から出る。
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せっかくなので佐和山城麓へ向かう。
佐和山一夜城で苦い経験をした東山運動公園。
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佐和山会館前に佐和山城天守閣のミニチュアが置かれています。
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正面から。
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南側から。
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反対側から。
このミニチュアは電車からも見えます。
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佐和山会館の中にもある。
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この絵をモデルにしたのかな。
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石田三成に過ぎたるものだった佐和山城。
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彦根城より立派やん。
駅の佐和山城ビュー。
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ここにあの天守閣が建っていたのか。
素晴らしい!
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百間橋と佐和山城。
湖面に映る佐和山城も素敵だっただろうなぁ〜
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帰宅後に知ったのですが、佐和山城麓の清涼寺にも移築城門があったらしい。
そのうちまた行くか。

(おまけ)

彦根城中堀前に建つ彦根キャッスルホテル。
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ひこにゃんのどら焼きが目に入った。
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やっぱり普通のどら焼きだった。
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お土産には喜ばれそう。
こちらは駅にいたひこどん。
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ひこにゃんの仲間?

室山城(播磨国)

登城日 1回目 1990年頃 晴
      2回目 2012年 1月 9日(月)晴
難易度 ☆☆
場所   兵庫県たつの市御津町室津

赤松義村最期の地

八朔のひな祭りの悲話が残る浦上氏の城です。

詳しい地図で見る

【室山城】

室津は西播磨の重要な港町で、その入江はいつも室の中のように穏やかなためにその名があり、『賀茂注進雑記』によれば、平安時代末期に室御厨・塩屋御厨の名がみえて、賀茂別雷社領42か所の1つで、御厨管理のために港を抱く小さな半島に末社が営まれていた。
この室御厨管理の任務を持つ賀茂神社が、鎌倉時代には荘政所(政庁)であると共に、いざという場合には城塞になったであろうが、その賀茂神社の山続きの丘陵に室山城が築かれたのは、おそらく鎌倉時代末期であろう。
播磨国佐用荘から台頭した赤松則村(円心)は、千種川流域を押さえると、外港を求めて室津をその支配下に収めたと考えられる。
建武2年(1335)に鎌倉で挙兵した足利尊氏が、翌年正月に京都の戦いに敗れて九州へ敗走する途中、西下して来る新田義貞の追討軍を阻止する戦略を円心らと協議し、山陽道諸国や四国の大将を定めたのは、この室津であった。
円心は白旗城を固く守り、新田義貞が攻めあぐねているうちに、九州でたちまち勢力を回復した尊氏は、海陸両道から大軍を率いて東上し、義貞は白旗城の囲みを解いて兵庫へ退いた。
円心は室津で尊氏に再会し、軍を合流して湊川の合戦に臨んだのである。
室町幕府のもとで播磨守護となった円心は、孫の本郷直頼(範資の子)に、続いて赤松頼則(貞範の子?)にこの城を守らせたという。
嘉吉の乱では、一族の赤松満政が室津に上陸して城山城の満祐を攻め、落城後満祐の弟義雅の幼児千代丸(のちの時勝、赤松政則の父)は満政の手で室津にかくまわれ、さらに天隠龍沢に迎えられて、義雅夫人の実家三条家で養育された。
嘉吉の乱の恩賞として播磨守護職を得た山名持豊(宗全)は、子の政豊に室山城を守らせたという。
応仁の乱の時旧領3か国(播磨・備前・美作)を回復した赤松政則は、備前三石城の老臣浦上則宗に室山城を補修させてこれを守らせた。
室津を支配するようになった則宗は、ここに関所を新設して海陸の物資に関税を課し、浦上氏の財源とした。
則宗は、この財源と武略によって強大となり、主君政則との一時対立して追放するほどになった。
その後室山城は、永禄9年(1566)正月に龍野の赤松政秀の急襲に遭い、城主浦上政宗が討死し廃城となった。
(日本城郭大系より抜粋)

最寄駅は山電網干駅。
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駅前から神姫バス大浦行きに乗り室津バス停下車。
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バス停前に「セイバン」。
ランドセル「天使のはね」のCMで知られる。
ここが本社とは。
(社名の「セイバン」は製鞄と西播をかけているらしい。)
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バス停の南に室山城はあった。
国道250号線付近は堀切だったかも。
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調査図。
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南へ少し登り始めると、数段の平坦地があった。
往時の曲輪跡かは不明。
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この石垣は往時のものではないが、城跡を彷彿させる。
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道路を挟んで反対側(海側)は字「城ノ越」。
腰曲輪かな。
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バス停から5分もかからずに室津二ノ丸公園到着。
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二ノ丸公園へ行ってみる。
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二ノ丸公園から登って来た方を見下ろす。
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字「城ノ越」を見下ろす。
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二ノ丸公園。
この辺りは字「二ノ丸」。
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二ノ丸は数段に分かれる。
上段の曲輪。
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石列?
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下段を見下ろす。
縄張が三石城と似ているとか。
ここは三の丸だったのかも。
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西側にも小さな曲輪があった。
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二ノ丸公園から嫦峨山を見る。
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二ノ丸を後にして、
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先へ進む。
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この辺りはまだ二ノ丸。
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この先が本丸。
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本丸の西側を進む。
この付近は字「城山」。
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登って行くと城跡碑がある。
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城跡碑。
遠見番所は、商船の通行を見張るため江戸時代に造られたもの。
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さらに登る。
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登った所が本丸跡。
草茫々で特に何も無し。
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一段下の平坦地もありました。
室津は大変栄えた時期があり、人家が建ち並んだことで地形がかなり改変されているそうです。
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本丸を下りる。
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二ノ丸へ戻って、本丸東側へ。
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本丸東側も海が迫っている。
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本丸東側。
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石垣?
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本丸付近から見えた賀茂神社
室山城と密接な関係があるという。
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最後に室津の港と室山城。
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室山城には悲話が残る。
永禄7年(1567)(一説には永禄9年(1566)とも)正月、城主浦上政宗は勢力拡大を図るべく、姫路城主黒田職隆(黒田官兵衛の父)の娘を子清宗の妻に迎える。
西播磨における浦上氏の力を削ごうと窺っていた龍野の赤松政秀(但馬竹田城主赤松広秀の父)は、婚礼の夜に急襲し政宗父子を討ち取った。
同時に非業の死を遂げた花嫁の鎮魂のために、以後室津では3月ではなく八朔(旧暦8月1日)にひな祭り
を行うようになった。

(おまけ)

先へ進むと江戸時代の史跡である燈籠堂跡。
現代でいう灯台みたいなものらしい。
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藻振観音堂跡。
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玉藻刈る 唐荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや 家思はざらむ
                                      山部赤人
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室山城さようなら。
室津の港町へ向かいます。
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案内図。
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法然上人貝堀の井戸。
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法然上人が貝で掘ったと云う井戸を覗いてみる。
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法然上人の高弟信寂上人が教化の道すがら土地の長者の帰依をうけ建立した浄運寺。
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遊女友君の塚。
法然上人は讃岐に流刑の途中、風待ちのため寄港した室津で遊女友君に逢う。
上人の説法で友君は後年尼となるが、許されて京に戻る上人が再び立ち寄った時、友君はもう亡き人であったと云う。
友君は木曾義仲の愛妾で、流れついた室津で舞いを見せ、遊女の始まりとも言われているとか。
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西鶴作で有名な『お夏清十郎』の清十郎の生家。
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赤松氏も登場する谷崎潤一郎作『乱菊物語』の舞台でもあります。
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江戸時代は参勤交代の大名の本陣が建ち並んでいた。
本陣跡の碑があちこちに建っています。
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牡蛎の試食も出来ます。
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最後に見性寺。
足利尊氏と赤松円心が軍議をした地は赤松義村最期の地(又は実佐寺)とも。
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三石城の攻略に失敗し逆に浦上村宗に捕らえられた赤松義村は、嫡子道祖松丸(後の赤松晴政)を浦上方へ引き渡した上隠居。
その後、勢力挽回に務めるものの最後には室山城に幽閉され、大永元年(1521)9月17日浦上村宗が放った刺客に襲われ、壮絶な最期を遂げた。
 
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空堀と土塁を見る。
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登って行きます。
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登っている途中に細い平坦地。
帯曲輪かな。
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本丸到着!
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今来た道を見下ろす。
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本丸には軍用石が散らばる。
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本丸の切岸。
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本丸からの眺め。
木に阻まれて見晴らしは良くない。
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本丸の中心に居館址の土壇がある。
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またまた縄張図。
縄張図はここにある。
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土壇の周囲に僅かながら石垣が見られた。
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土壇の中心。
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本丸北側を見る。
本丸は約500坪。
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本丸南側を見る。
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本丸の南側に若干の窪み。
ここにも井戸があったのかな。
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本丸を振り返る。
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二の丸に下りて行く。
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二の丸。
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二の丸には僅かながら土塁が見られた。
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二の丸西側の切岸。
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三の丸へ下りて行く。
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三の丸の様子。
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三の丸西側の切岸。
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三の丸から二の丸を見る。
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三の丸はかなり細長い曲輪で、南側半分は木が繁っていて歩きにくい。
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三の丸の井戸跡。
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三の丸西側に僅かに残る土塁。
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大手門の方へ行ってみる。
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池跡。
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池跡の先を下って行くと、
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大手門跡。
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戻る。
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三の丸西側下の馬場跡へ。
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馬場跡。
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細長い曲輪です。
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三の丸の南端へ。
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千貫井戸(底無し井戸)へ70mと書いてある。
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行ってみたが道が解からなかった。
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ここで千貫井戸経由で下りてしまわなくて良かった
馬場跡から第一見張所へ下りる途中、石垣発見!
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櫓台だそうです。
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第一見張所から登ってきた道を下りて行きました。
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三石城さようなら。
永正14年(1517)成人し政務に参加するようになった播磨守護赤松義村は、2人の宿老(浦上村宗と小寺則職)と3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布いた。
この新体制に反発した重臣浦上村宗は、翌年三石城へ退去してしまった。
これに激怒した赤松義村は、小寺則職らとともに軍を率いて三石城を包囲。
しかし、村宗の重臣宇喜多能家(宇喜多直家の祖父)の活躍もあって討伐軍は壊滅。
逆に村宗の播磨侵攻を許し赤松義村の権威は失墜。
永正17年(1520)には村宗に捕らえられ、養母の洞松院の命令で隠居を余儀なくされた。
登城日 2012年10月 6日(土)曇
難易度 ☆
場所   岡山県備前市三石2670番地外

浦上氏下剋上の舞台

備前守護代浦上村宗の居城です。

詳しい地図で見る

最寄駅は、山陽本線三石駅。
岡山県の東境に位置する三石駅は、隣りの兵庫県の西境に位置する上郡駅との間の本数が少なく、18きっぷの旅行者にとって難所となっている。
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ホームから三石城。
真正面に聳える標高291mの天王山を見ただけで萎える。
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せっかく来たので、気を取り直して三石城へ向かいましょう!
三石城への登城道は2つのルートがある。
町中から登る南側のきついルートと、北側の駐車場から登る比較的緩やかなルート。
車の人は北側から、徒歩の人は南側からかな?
駅から西へ。
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橋を渡った所に一里塚。
ここから旧山陽道を進む。
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三石には耐火煉瓦工場が建ち並ぶ。
地元産の蝋石が製鉄用の耐火煉瓦に好適であることから明治中期以降大いに発展した。
しかし、近年は資源の枯渇と需要の減少により衰退傾向とか。
(そういえば子供の頃、蝋石で塀や壁に落書きしましたが今も使われているのかな?)
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かつては人馬が行き交う交通の要衝だった旧山陽道。
現在はこの通り人も車も疎らな寂しい感じでした。
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街道沿いにある三石明神社。
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孕石が祀られている。
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説明板。
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三石明神社の先に登山口があります。
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浜田屋さん脇です。
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進むと崖に案内図が描かれています。
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ここで案内図に目を奪われてそのまま進まないように。
反対側の民家の棚に「三石城の栞」が置かれています。
是非貰いましょう!
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【三石城】

この城は鎌倉末期の元弘3年(1333)に、地頭の伊東大和二郎が築いたとされる。
播州白旗城の赤松氏が備前守護職に任ぜられると、浦上宗隆が守護代で三石城主となる。
後に、浦上氏は片上湾を扼する富田松山城を築き、日本一の窯業生産地(大甕・摺鉢などの生活用品)の積み出し港を押さえ、西播磨では瀬戸内海海運の要の室津をも支配した。
嘉吉元年(1441)に主家赤松満祐が将軍義教を誘殺した嘉吉の乱が起こり、結果守護職は山名氏に代わった。
応仁元年(1467)赤松政則が守護職に返り咲くと、三石城の浦上則宗が守護代に復帰した。
これらの変を通じて浦上氏の力は主家を凌ぐようになり室町第(幕府)造営料を浦上則宗が負担する迄になる。
文明16年(1484)正月、山名氏が松田元成らの軍勢と共に三石領に乱入したが、これを浦上基景・則国が撃破。
こののち浦上氏は赤松氏から独立の方向に動いた。
則宗の孫村宗の代になると主家赤松義村と対立、永正15年(1518)9月、義村は村宗の立て籠もる三石城を攻めるが大敗。
大永元年(1521)村宗は義村を幽閉して自害させ、戦国大名浦上村宗の登場となった。
村宗の子政宗は居城を室津の室山城とし、三石城には自分の弟宗景・国秀を置く。
村宗は細川高国を室山城に迎え、三好元長と組む赤松政村と覇を競う。
しかし三石城の宗景らが自立に動いたため、村宗と政宗は三石城を占拠。
宗景は天神山城、国秀は富田松山城に移り父子相争うことになる。
その後、村宗・政宗父子は龍野の赤松政秀に攻められて滅んだため、三石城は宗景の拠る天神山城の有力支城となった。
宗景は備前北部から美作に進出、尼子氏の南下に抗し独立した戦国大名に成長。
享禄4年(1531)宗景の備前支配は終わり三石城は廃城となった。
その後宗景の重臣宇喜多直家が天正元年(1573)岡山城で自立し毛利と結ぶと、宗景は織田信長と組んだ。
宇喜多勢は天正2年秋、天神山城の宗景を攻める。
信長は荒木村重・小寺政職に命じ援軍を出すが天神山城は天正4年9月に落城。
三石城は廃城となった後も織田氏・宇喜多氏によって城番が置かれた可能性が高い。
(「三石城の栞」より)

階段を登って登城口へ。
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登城開始!
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穴発見。
古墳?
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約3分登って第二見張所へ。
見晴らしは良くない。
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三石城説明板。
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裏に俳句が書かれているが読み難い。
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さらに登る。
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約8分で息つぎ井戸。
井戸どこ?
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約3分で三の丸直下の千貫井戸への分岐点。
少し行ってみたが、草茫々で断念。
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すぐに第一見張所への分岐点。
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第一見張所は細長い曲輪。
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城下を見下ろす。
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第一見張所から三石城を見上げる。
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ここから本丸へは2つの道がある。
大手門経由の道と三の丸経由の道。
どちらも素晴らしい石垣があり見過ごせない。
まずは大手門経由の道へ。
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あと100mなのになかなか辿りつかない…
約3分登ってようやく大手門の石垣が見えてきた。
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縄張図。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/e7/31/kanezane/folder/1510034/img_1510034_61181498_82?1351429541_
トイレはここで。
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大手門跡。
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大手門を上から見る。
埋門だったらしい。
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橋頭堡状に塁壁を張り出させた大手曲輪。
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土塁の外側は石垣。
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ここから池を通って三の丸へ行くのが通常ですが、そのまま直進して鴬丸(出丸)へ向かう。
急斜面の間の細い道を進むと、
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空堀が現れる。
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空堀外側の土塁。
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石垣もあったのだろうか。
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今来た道は間道(谷底道)だそうです。
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鴬丸(出丸)への土橋?
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土橋?の向こう側の堀切。
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鴬丸(出丸へ)へ。
細い曲輪で木が生い茂り良く解らない。
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先へ進むと駐車場へ到達。
車の人はこちらから入城することになる。
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出丸の切岸。
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「城址巡りの方は必ず矢印の方向に歩いて下さい」
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戻って今度は本丸へ向かう。
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つづく

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