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登城日 2011年12月23日(金)晴 難易度 ☆☆☆☆☆ 場所 鹿児島県志布志市松山町新橋松尾 【松山城址】 松山城は文治4年(1188)平清盛の弟頼盛の孫である隠岐守重頼が松山に来て松山城を築いたという記録が残っています。 城が築かれた後、4年経った建久3年(1192)には、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。 このような時代に、城を築いた重頼はいつ頃まで松山を治めたのか分かりませんが、あまり長くなかったといわれています。 その後、戦国時代になると島津氏や肝付氏などの勢力争いのため、松山城は度々激しい戦乱の舞台となり、何度か落城したようです。 最終的には島津氏の直轄地となり、島津家の家臣が地頭となり松山を治めました。 松山城は本丸、二ノ丸、五兵衛城、八幡城の4つに分れていますが、現在そのままの状態で残っているのは二ノ丸部分だけです。 志布志市教育委員会 最寄駅は国鉄志布志線大隅松山駅だった… ホームと線路。 待っていれば列車がやって来そうな雰囲気。 しかし、昭和62年(1987)に廃止されてしまった。 すでに駅舎は無く、広場が往時を偲ばせる。 大隅松山駅跡モニュメント。 駅前の農協石蔵倉庫。 国鉄志布志線廃止後はJR都城駅から三州バスが出ていますが、本数が非常に少ないので注意。 県道110号線を東へ。 菱田川を渡った所の広域農道との交差点は「馬場」 見上げると、山の上に松山城の櫓風展望台が見えた。 まず、志布志市役所松山支所へ。 城下の案内図がある。 登って行くと、両側が高い壁に囲まれた道となる。 空堀跡だった。 空堀の上は出丸と二ノ丸。 登って行く。 空堀跡を振り返る。 登った所は二の丸と出丸の堀切跡。 堀切跡は拡幅されてトイレがあるので雰囲気が変わってしまっている。 まずは、出丸へ。 出丸上段に鎮座する護国神社。 出丸下段の曲輪。 出丸下段から上段を見る。 出丸南側下の小さな曲輪。 今度は二の丸へ。 登って行く。 虎口? お地蔵様? 二ノ丸。 櫓風展望台と神州不滅の碑が建つ。 説明板。 見晴らしはいいのですが、山ばっかり。 降りて、二ノ丸から松山駅方向を見下ろす。 出丸から北にある陸上競技場と体育館を見る。 ここに本丸があったという。 造成によって消滅。 造成前の航空写真。 畑地になっていて既に良く解らない。 松山城から城下にある松山支所とJAを見下ろす。 この付近はかつて松尾川に囲まれた地形で「中島」と呼ばれていた。 伝説では、嘉吉の乱後、赤松教康は城山城を脱出し島津氏を頼って志布志まで来たが、人目につくのでさらに山奥の松山へ行き、松山城南麓の中島に居を構えたと云う。 赤松氏三代の墓が正若宮八幡宮の境内にあったが、八幡宮は昭和42年(1967)に宅地造成時に松山城中腹に移転。 現在は松山神社に合祀されている。 境内南の高台には西南之役記念碑がある。 高台から松山城南麓の中島を見下ろす。 松山神社を見下ろす。 現在、赤松氏三代の墓は無くなっている。 墓は藩政時代に鹿児島の南林寺へ移転、その後現在は草牟田の新墓地に移転したとか。 子孫は室町幕府が滅びるまでこの地でひっそりと暮らし、織田信長の時代に島津氏に召し出され、曾孫である赤松肥前守義季は島津義久に仕え家老を務めたという。 召し出された後の赤松氏は鹿児島市山田町谷(中山IC近くかな?)に屋敷を構え、屋敷跡には赤松氏が建てた「功農神霊祠記碑」があるとも。 史実では伊勢で亡くなった赤松教康ですが、ここまでくると宇喜多秀家や豊臣秀頼並みの扱いですね〰 (おまけ) 毎年11月には、「やっちく松山藩秋の陣祭り」が行われ、一夜城(パネル)が出現。
松山城の北にある道の駅「松山」やっちくふるさと村。 平家っぽい建物。 名物? ハモ天丼。 ボリュームあり過ぎ。 最後に、お決まりのマンホール。 ちなみに、「やっちく」とは、野菜と畜産をもじった言葉だそうです。 |
城
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(もどる) 霧山城から下山して社務所へ。 ここで入園料300円と御朱印をもらう。 国指定史跡北畠氏館跡庭園へ。 説明板。 【北畠氏館跡庭園】 国指定名勝・北畠氏館跡庭園は、当代庭園中屈指の作として全国的に高い評価を受けています。 近年各地の発掘調査により、同時代の庭が見つかってきましたが、この庭園は埋もれずに残っていたものとして、とても貴重なものといえます。 「米字池」と呼ばれる池泉は複雑な形をなし、屈曲する護岸石組みは豪快で力強く、東側には高さ約2mの須弥山石を中心にした立石枯山水が組まれています。 築山には樹齢400年以上の巨樹が聳え、しっかりと大自然と調和しつつ、しかも質実剛健、武将好みの男性的な庭園です。 発掘調査の結果、池は16世紀代に造られたことが分りました。 これは、7代国司北畠晴具の時代、享禄元年(1518)頃管領細川高国の作庭という説に合致しています。 津市教育委員会 紅葉の庭園。 ちょっと遅かったかな。 築山。 須弥山石。 築山の方から見る。 中央の米字池。 豪快な護岸の石組み。 京都の庭園とは趣が違う。 池の奥の方。 小さな滝もある。 境内にあった写真と同じ角度で最後に一枚。 細川高国が大物崩れの戦いに敗れ自害するとき、北畠晴具へ送ったとされる辞世の句。 「絵にうつし石をつくりし海山を 後の世までも目かれずや見む」 この句が当庭園の作庭者が細川高国と云われる由縁とのこと。 最後に御朱印。 北畠神社を後にする。 さて、周辺にも見所があります。 詰の城から見下ろす。 案内板の矢印に従って行ってみる。 北西隅。 石垣が見られた。 西側の堀跡。 北側の堀跡。 北側の堀跡を北東隅から見る。 東側の堀跡。 北畠氏一族の居館だった東御所(六田館)跡は畑地になっている。 東御所跡の南東隅に鎮座する雪姫大明神へ。 説明板。 【雪姫の伝説】 南朝の元勲、国司北畠顕能卿以来、240年間伊勢国司として、この地に館を構え、伊勢国に君臨した名族北畠氏も遂に戦国時代にいたり動乱の荒波にのまれ、その幕を閉じた。 八代国司具教卿は、阿坂城(白米城)大河内城で織田信長の大軍を迎え撃ったが雌雄決せず、永禄12年、わが娘、雪姫の婿養子として、信長の子、茶せん丸(後の信雄)を迎え入れ戦はおさまった。 しかし、平和も束の間、この婚儀が謀略であったことに気付いた時は、すでに遅く、天正4年11月、具教卿は三瀬谷の館で暗殺され、霧山城をはじめ、各支城が落城した。 雪姫の運命はどうなったのか、残念ながら歴史資料には殆ど登場することはないが、古くからこの土地の人々に語り継がれてきた伝説がある。 自害しようとしたが果たせず、東御所と呼ばれたこの館の桜の木に縛られていたところ、どこからか現れた白い狐に救い出された。 それから何処ともなく逃げられ、生涯を全うされたという。 そして、四百年の間、幹が枯れても根は枯れず、新しい芽が出て育つこの桜の木を雪姫桜と呼んでいる。 家のため、人々の平和のためとはいいながら、幼くして敵の子の妻となり非運の生涯を送ったお姫様に同情する里の人々に語り継がれ、その御霊安かれと、この雪姫大明神と稲荷大明神がお祭りされてきた。 平成4年2月、三越劇場において、女優磯村みどりさんが、この雪姫を演じられ好評を博した。 これを記念して、有志により神域の整備を行った。 平成4年4月吉日 多気地域住民センター |
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登城日 2010年11月23日(火)曇 難易度 ☆☆☆ 場所 三重県津市美杉町上多気1148 【多気北畠氏城館跡】 南北朝から戦国時代、この多気の地は伊勢国司であり大名であった北畠氏の本拠地でした。 その中心であったのが、多気のほぼ中央に位置する北畠氏館跡と詰城及びその背後の山地にある霧山城跡からなる多気北畠氏城館跡です。 北畠氏館跡は、北畠神社境内を中心に西を山裾、それ以外を川で囲まれた場所にあります。 館跡内で行われた学術調査の結果、15世紀〜16世紀初頭には大規模な造成が行われ、中世城館では日本最古となる南北2列の石垣が設けられ、土器からは京都文化との繋がりが明らかになっています。 また、北畠氏館庭園は曲水池泉の鑑賞式庭園で、戦国時代の庭園として非常に著名なものであり、庭園は、「米」字形をする園池と立石による枯山水からなります。 また、館跡の裏山には詰城があります。 霧山城跡は、館跡から比高差約240mの山頂に位置します。 一部16世紀代の改修を受けているようですが、その構造から館跡詰城を含めていずれも14〜15世紀の築城とされ、館跡と一体の遺跡と考えられています。 津市教育委員会 JR名松線伊勢竹原駅から美杉コミュニティバスに乗り換えて「北畠神社前」下車。 バスは一日に約5本と運行本数が少なく、事前に確認が必要です。 (JR比津駅から約1時間歩くという選択肢もある。) 周辺の様子。 資料館には、北畠氏館の模型があります。 北畠顕能。 『神皇正統記』を書いた北畠親房の三男で、伊勢北畠家初代。 南朝の日の丸。 昔は赤では無かった… ここで、北畠氏関連の資料をGet! 資料を手に北畠神社へ向かう。 大宮戸川を渡る。 右、北畠神社。 左、霧山城。 右へ。 二の鳥居。 御由緒。 【北畠神社由緒】(旧別格官幣社) 祭神 従一位右大臣 准后 北畠顕能公 配祀 北畠親房公(父) 北畠顕家公(兄) 例祭日 10月13日 建武中興の偉業は半ばにして破れ、後醍醐天皇は三種の神器を奉じて吉野山に仮の皇居を設けられた。 時に延元元年(1336)12月。 以降57年間を世に南北朝時代と言う。 北畠親房は学徳衆に優れ、天皇の信任篤く、常に側近に在ったが動乱に際して自ら陣頭に指揮をとり、足利勢と対決した。 大楠公以下諸忠臣相次いで戦没し、長子の陸奥守鎮守府将軍顕家も亦、延元3年5月弱冠21才で阿倍野(大阪市)の露と消えた。 神皇正統記は親房が常陸国の戦陣において筆を執ったもので、国体の本義を明らかにして、南朝の正統を天下に宣言し、後世に大きな影響を与えた史書である。 顕能は興国3年(1342)に戦略上の拠点として、この地に霧山城を築き伊勢国司に任ぜられた。 この位置が当時の居館跡である。 館は多気御所又は北畠御所と呼ばれていた。 その生涯58年のうち、実に45年の歳月は南朝護持のために捧げられたものである。 大小の合戦六十数回、二度までも京都を奪還した功績は偉大である。 南朝方の大御所として、後醍醐、後村上、長慶の三帝に仕えて忠誠をつくした。 弘和3年(1383)7月28日多気に没す。 以後九代二百数十年に亘って、伊勢国司は一志・飯南・度会・志摩の南勢五郡と紀伊、伊賀、大和におよぶ領域に善政を布いたが天正4年(1576)11月、天下制覇を狙う織田信長の謀略により、具教は三瀬の館(多気郡)に於いて殺され、北畠氏は滅亡した。 寛永20年に一族の末裔鈴木孫兵衛家次この地に小祠を設けて北畠八幡宮と呼び村人の尊崇を受けつつ幕末に至った。 昭和3年11月天皇御即位の大礼の日に別格官幣社に列せられたが終戦とともに廃せられた。 【霧山城跡】 標高560m、遙かに吉野連峰を望む。 昭和11年国の「史跡」に指定せらる。(美杉村所有・管理) 【北畠氏館跡庭園】 享禄元年(1528)管領職細川高国の作と伝う。 当代庭園中三名園の一に数えられる。 昭和11年国の「名勝」及び「史跡」に指定せらる。 手水舎。
まずはお参り。 本殿左側の多藝神社。 今度は右へ。 この辺りに居館の入り口があった。 大河ドラマ『太平記』でゴクミが演じたのが懐かしい。 (それまでお恥ずかしながら知らなかった…) 北畠顕能の歌。 「いかにして 伊勢の浜萩吹く風の治まりにきと 四方に知らせむ」 さらに右へ。 平成9年夏の発掘調査で中世館跡としては日本最古の石垣が発掘された。 説明板を拡大。 説明板を拡大。 居館の切岸。 往時のものかどうかは不明。 振り返る。 その西側の空き地。 建物跡が発見された。 北畠具行、北畠満雅、北畠具教、他北畠一族や家臣、郎党、農民の戦没者を祀る。 禁中谷川を渡る。 渡った所にある多気保育園。 禁中宮跡の碑が建つ。 南朝の後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇の名が刻まれていた。 内容は解らなかった。 八手俣川と対岸を見る。 神社へ戻ります。 宝石のような落ち葉。 きれいだなぁ〜 バス停横の境内北側の参道入り口から入る。 この後、国指定史跡の庭園跡などを見てまわります。 (つづく) |
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登城日 2010年 1月 9日(土)曇 難易度 ☆☆ 場所 兵庫県たつの市新宮町馬立 【城山城】 城山城は標高458mの山上に位置する山城で、奈良時代の古代山城と室町時代の中世山城が同じ場所に立地しています。 古代山城の遺構は主に西斜面に残っており、石塁(a〜d)や「門の築石」と呼ばれる門礎等があります。 中でも石塁cは全長41m・高さ3mの規模をもち、当山城の石塁としては最大です。 また「門の築石」は唐居敷と呼ばれる形式のもので、同形のものでは山口県の古代山城「石城山神籠石」にあるだけです。 14世紀の中頃、播磨国守護赤松則祐は播磨支配の拠点とするため大規模な山城を当地に築きますが、嘉吉の乱(1441)で赤松満祐が幕府軍に攻められ当城で自害し、城山城も落城します。 城山城には、この時の遺構(郭・堀切等)が多数残っており、当時使用していた遺物も出土しています。 城山城は県下唯一の古代山城として、また播磨屈指の中世山城として大変貴重な遺構といえます。 平成6年3月 新宮町観光協会 城山城へはJR姫路駅から姫新線に乗り換えて行きます。
車窓から見た城山城。 大手道の最寄駅は東觜崎駅ですが、まずはその一つ先にある播磨新宮駅近くのたつの市立新宮歴史民俗資料館へ向かい情報収集。 中には城山城の模型がある。 しかし、この模型は古代山城のもの。 城山城は古代山城と中世山城が同じ場所に立地。 一般的には古代山城の方が有名だろう。 しかし、ちゃんと縄張図も展示してあります。 また、「たつの市 越部古道散策マップ」を貰いましょう! このマップには登城道の他、縄張図まで付いています。 付近には国指定史跡新宮宮内遺跡があるのでついでに見学。 かつての様子。 北には大寺山城が見えます。 じっくり見ていたら日が暮れてしまうので、城山城へ向かうべく因幡街道を南下。 輪袈裟の清水。 弘法大師が大干ばつの時にこの地を通りかかり輪袈裟を地面に置き経を唱えたところ清水が湧き出たと云う。 越部里から西へ。 搦手道から登城しました。 入り口付近には市野保古墳群があります。 15分程進むと搦手門跡に到達。 門の礎石が残る。 この礎石は古代山城のもの。 ここから険しい山道となります。 途中、道が判別つかないのでビニールが張ってあります。 心許ない。 まずは、城山城の出城だった祇園嶽城を目指しました。 祇園嶽城への登城道と城山城への道の分岐点。 ここまで搦手門跡から20分。 5分登って祇園嶽城へ。 城下を見下ろす。 頂上の様子。 今一つはっきりしない城跡。 細長い曲輪。 祇園嶽城から見た城山城。 また先程の分岐点に戻り今度こそ城山城へ向かう。 途中路を見失う。 道に迷ったら、木に付いている赤いマーキングテープを探すこと。 祇園嶽城から約25分で大手道との合流地点へ到着。 供養碑が目印。 側面に南無阿弥陀仏の銘がある。 ちょっと先にかえる岩と、 亀岩がある。 ここからまっすぐ行けば城山城へ行けますが、亀の池へ寄り道。 亀の池。 この池は溜池。 弥生時代の高地性集落が存在したとか。 亀山を目指す。 しばらく歩くと石塁が見えてきました。 古代山城のものです。 古代山城の門の礎石。 亀岩から約25分で亀山(城山)頂上へ到着。 ちょっと西へ下りて行くと、古代山城の石塁cがある。 この石塁が城山城最大規模。 亀山頂上から10分程少し下った所に城山城があった。 縄張図。 石垣が僅かに見られた。 9月3日、赤松満祐は書写坂本城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。 9月9日、赤松義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨の国人の多くも赤松氏を見放して逃げてしまった。 9月10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた赤松満祐は子の教康や弟の則繁を城から脱出させ、切腹した。三基墓。 この辺りで、赤松一族69人が自害した場所と伝わる。 屋敷跡から南を見る。 山の中腹にあり、眺望は良くない。 帰りは兵糧道から下山しました。 見張岩。 石塁が見られた。 古代山城のものかな? 兵糧道入り口。 麓には赤松氏の菩提寺と伝わる興聖寺がある。 赤松満祐の念持仏(毘沙門天像)や満祐・則実・義雅の位牌があるという。 城山城に日が暮れていく… 6月24日から約2ヶ月半に渡る嘉吉の乱が終焉し、赤松氏が一旦滅びることとなった。 |







