京都史跡めぐり
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場所 京都市左京区南禅寺福地町86-11 山名持豊(宗全)は、室町時代の武将、守護大名。 家系は新田氏庶流の山名氏。 室町幕府の四職の家柄で侍所頭人。 但馬・備後・安芸・伊賀・播磨守護。 山名時熙の三男で、母は山名氏清の娘。 諱は持豊で、宗全は出家後の法名。 応仁の乱の西軍の総大将として知られ、西軍の諸将からは宗全入道または赤入道と呼ばれていた。 (wikipediaより抜粋) 山名宗全の墓所は、南禅寺の塔頭真乗院にある。
南禅寺の中門を潜る。 中門をから入ってすぐ右手に真乗院があります。 境内奥にある山名宗全の墓所です。 山名宗全は、文明5年(1473)3月18日(4月15日)に死去。 その2ヶ月後の5月11日(6月6日)に東軍の総大将の細川勝元が相次いで死去。 応仁の乱は終息に向かうこととなった。 京の名所旧跡(目次)へ戻る |
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場所 京都市上京区山名町付近 応仁元年5月、細川勝元率いる東軍と山名宗前全率いる西軍は堀川を境に激突した。 堀川今出川交差点の西北にある鶴屋吉信の前に建っている石碑。 「西陣舩ばし」と書いてある。 所在する場所の町名も西舟橋町。 付近には北舟橋町や南舟橋町もある。 説明板。 【舟橋の由来】 この地は、古くから舟橋と呼ばれていますが、昔、堀川がはんらんしたとき、舟を繋いで橋としたことから起こったといわれます。 「京町鑑」では、足利尊氏の執事、高師直の邸があり、泉殿の下に舟橋を浮かべて結構を尽くしたのが地名になったと記されています。 応仁の乱では、西軍の将、山名宗全の本陣が近くの山名町にあって、西陣の地名になりました。 山名町へ行ってみる。 堀川通を少し北へ上った所にあります。 マンションの南側に碑が建っています。 「山名宗全邸址」と書かれていました。 細い通りを西へ。 ここにも山名宗全邸跡を示す碑が建っています。 説明板。 【山名宗全邸宅跡】 山名宗全は応永11年(1404)に生まれ、名を持豊といい、後に宗全と号したが、赤ら顔であったので赤入道ともいわれた。 但馬をはじめ数ヶ国を領し、強大な勢力を持っていた。 子供がなかった将軍足利義政は、弟義視を後嗣にしようとしたが、その後、義政の夫人富子に義尚が生まれたため、将軍職をめぐる後継者争いが起こり、応仁の乱に発展した。 義尚を擁する宗全は、この邸宅を本陣として、室町今出川の花の御所に陣を置く義視方の細川勝元と東西に分かれて11年間に及ぶ戦いを繰り広げた。 このため、京都の町の大半は焦土と化した。 なれや知る都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても落る涙は (飯尾彦六左衛門尉常房) この地にあった山名家代々の邸宅も焼失し、宗全は文明5年(1473)、陣中で没した。 このあたり一帯を西陣と呼ぶのは、宗全が幕府の西に陣を敷いたことによる。 京都市 石碑には「山名宗全舊蹟」と書かれていました。 ここ山名宗全邸を中心に、東の堀川通から西の七本松通、北の鞍馬口通から南の中立売通あたりまでの間を西陣と呼ぶようになった。 再び今出川通へ戻り少し西へ行くと、京都市考古資料館があります。 数々の素晴らしい企画展をやっているので必見です。 詳しくはHPで。 考古資料館前に西陣碑が建っています。 京都帝国大学…(何やらかんやら) 難しくて読めません。 応仁の乱後、京織物の職人は両軍の本陣の跡地である東陣(白雲村)・西陣に帰還し諸国で習い覚えた明などの新技術も加えて京織物を再興、特に西陣はブランドを確立し、京織物の産地として発展した。 さらに西へ。 大宮今出川。 ここは、旧西陣織物産地問屋協同組合跡地とのこと。 この交差点は江戸時代には日々千貫千両に値するおびただしい品物が往来していたことから「千両ヶ辻」と呼ばれた。 ここにも、西陣の名の由来が書かれていました。 堀川今出川の交差点へ戻って、今度は少し堀川通を下ると西陣織会館があります。 ここにも西陣碑が建っています。 考古資料館前の碑が風化してきたので、新たにこちらにも碑を建てたとのことで、内容は同じだそうです。 【西陣】 京都帝国大学総長医学博士荒木寅三郎閣下篆額 古来朝廷には大蔵省に織部司ありて綾錦を織り及び染物の事を掌れり 後其業民間に移り織工等大舎人座を組織して高機を構へ大舎人織手師と呼ばる 応仁の乱に東西の両軍京都に割拠して攻戦11年に及び其間西軍は五辻通大宮東なる山名宗全の邸を中心として堀川以西一条以北の辺に駐屯せしより此一画を呼んで西陣といふ 是時に当りて戦乱相次ぎ京都の織工多く難を避けて和泉堺の海浜に居住せり 堺は乱中幕府の遣明船発着の港となり貿易殷賑を極めたり 乱平ぎし後京都の織工帰りて西陣の地白雲村に居り明の織法を伝へて其面目を新めたり 天文中大舎人座中31人ありしが元亀2年を其6人を内蔵寮織物司に補せられ御寮織物司と号す 天正中豊臣秀吉白雲の水質不良なるを以て新在家に移せりといふ 此前後より印度支那及び西洋諸国の織物を伝へて其業益精しく機業の隆盛を来すと共に織工の家西陣の故地に櫛比し西陣織物の盛名宇内に喧伝せらるるに至れる 今茲に西陣発源の地をとして碑を建てて其来歴を明らかにす 昭和3年11月 文学博士三浦周行撰 山田得多書 応仁の乱は、赤松氏再興のきっかけとなった。 西軍の山名氏に対し、赤松氏は東軍につき応仁元年(1467)5月の開戦直後に播磨へ侵攻開始。 赤松氏の旧領であった播磨・備前・美作を回復することとなった。 (この時、加賀北半国は放棄したようで、同じ東軍であった冨樫政親が所領を回復した。) (おまけ) 西陣碑の隣りに村雲御所跡の石碑が建っている。
豊臣秀吉の姉・日秀が子の豊臣秀次一族の菩提を弔う為に建てた瑞龍寺の故地を示している。 瑞龍寺は日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院となり、村雲御所と称された。 当初は嵐山の二尊院近く(嵯峨村雲別院のある地か)に建立、江戸時代に西陣へ移転、昭和36年(1961)に豊臣秀次の居城だった近江八幡市の八幡山城へ再移転した。 京の名所旧跡(目次)へ戻る |
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場所 京都市上京区弁財天町付近 長禄2年(1458)に加賀北半国守護となった赤松政則であったが、加賀へ下向することはなく京都にいたようだ。
寛正3年(1462)9月には京都で起こった大規模な土一揆を畠山政長に協力して鎮圧し、戦後に政則は将軍・足利義政より感状と太刀を与えられた。 そして、寛正6年(1465)12月26日に義政の偏諱を授かり元服する。 この時、次郎法師丸は赤松政則となった。 さて、赤松政則の邸宅は何処にあったのか。 寛延3年(1750)に森幸安によって書かれた『中古京師内外地図全』。 この図をよく見てみると室町殿(花の御所)の西側に「赤松兵部」の文字が見える。 兵部とは官位「兵部少輔」のことかと。 赤松政則とその養子である赤松義村がともに兵部少輔だった。 地下鉄に乗って今出川駅下車。 中世では北小路と呼ばれていた今出川通を西進。 室町通と交差する南側は北小路室町。 室町殿の別邸、北小路殿があった。 そして、しばらく進むと北側に上京区役所が見えてくる。 この辺りの南側に今図子町があり、管領細川勝元の宿所、北小路屋敷があった所と云う。 上京区役所。 通りを挟んで南側にある今出川通新町東入るの地蔵堂。 この辺りの町名は堀出シ町。 室町幕府の所在地の周囲に堀があったことに由来。 住民図記載のとおり、旧今出川通は真っ直ぐだった。 新町通(町小路)と交差。 新町通を北へ進むと近衛殿(現、同志社大学新町校舎)があった。 今出川新町の交差点付近は元新在家町。 元は白雲村といい、絹織物生産が盛んだった。 新たに出来た集落を新在家と称したが、織物生産に水質が不適だとの理由で、天正16年(1588)現京都御所の白雲神社付近へ移り、それに対応して当地が元新在家と言われるようになった。 赤松兵部邸は白雲村にあったようです。 また、隣接する宝傳寺は現堀出シ町の北付近にあり、「堀出シカクシ」は堀出薬師の誤写ではないかとの説あり、宝傳寺の薬師堂のことかとも。 宝傳寺の西隣に臨済宗東福寺派の聖寿寺があった。 ということは、この辺りかな。 それとも旧今出川通に面したこの辺りかな。 元新在家町の西隣の弁財天町は、足利義尚の小川御所の鎮守であった弁財天の祠があったことに由来。 弁財天町内を東西に貫く旧今出川通を西から見る。 旧今出川通はここで直角に曲がり北進する。 この辺りは南兼康町。 室町時代に歯科医丹波兼康の屋敷があったことに由来。 今出川通の北側には北兼康町もある。 かなり大きな屋敷があったのかと思うも、『中古京師内外地図全』と『中昔京師地図全』のどちらにも載っていない。 南兼康町と西隣の針屋町にかけては細川澄元の屋敷があったらしい。 旧今出川通は南兼康町内で現今出川通と合流し西進。 この辺りが細川澄元の屋敷の北端。 中小川町で、 小川通と交差。 通りの名は、昭和後期までが流れていた小川(こかわ)に由来。 交差点付近に羅漢橋という橋が架かっていた。 永正8年(1511)8月、室町幕府10代将軍足利義尹(義稙)が細川高国、大内義興らの兵を率いて、船岡山で11代将軍足利義澄、細川澄元、細川政賢らの兵と合戦し京都を奪回。 この橋の上で細川政賢が戦死したと伝わる。 (この戦いの後、敗れた足利義澄の遺児は播磨置塩城へ逃れ、赤松義村の元で養育され、やがて12代将軍足利義晴となる。) 羅漢橋があって、東に羅漢寺があったので、すると赤松兵部邸は元本満寺町の南端付近かな。 中古京師地図は一時期を捉えた地図ではないので、下京を見ると平清盛の西八条第が載ってたりする。 だいたいこの辺りなんだろう。 京の名所旧跡(目次)へ戻る |
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(もどる) 京都御所の真ん中あたりを進みます。 まずは模型で。 清涼殿を後にする。 陣の座。 陣の座を東から見る。 大臣宿所脇を東へ。 大臣宿所。 北へ。 小御所。 諸種の儀式が行われ,将軍・大名など武家との対面にも使用された。 慶応3年(1867)12月9日の王政復古の大号令が発せられた日の夜、「小御所会議」がここで行われた。 近づいてみる。 小御所の向いは御池庭。 蹴鞠の庭。 小御所北側には御学問所。 和歌の会など学芸に関する行事のほか、臣下との対面にも用いられた。 下段の間。 原在照筆「岳陽楼図」 中段の間。 岸岱筆「蘭亭ノ図」 上段ノ間。 狩野永岳筆「十八学士登瀛州図」 御学問所を後にする。 急ぐ人はここから西へ。 北へ進む。 御内庭。 奥に茶室「錦台」がある。 ここから北へは行けないので眺めるだけ。 御涼所。 迎春(こうしゅん)。 御常御殿へ。 天皇が日常生活を送っていた御殿。 東御縁座敷を覗いてみる。 襖絵。 もう一つ。 杉戸絵も見所。 南側へ。 前に塀があるので狭くて建物全体を正面から撮影出来ない。 南御縁座敷を覗いてみる。 上段の間、中段の間、下段の間に分かれる。 襖絵が見所。 下段の間。 座田重就筆「高宗夢賚良弼図」 中段の間。 鶴沢探真筆「大禹戒酒防微図」 上段の間。 狩野永岳筆「尭任賢図治図」 御常御殿を後にする。 西隣が御三間。 ここも襖絵が見所。 下段の間。 岸誠筆「駒引図」 中段の間。 駒井孝礼筆「賀茂祭群参図」 上段の間。 住吉弘貫筆「朝賀図」 杉戸絵も。 御三間を見たら一般公開も終わり。 出口へ進む。 御所の桜。 振り返る。 皇后宮常御殿は今回公開されず。 残念。 清所門から出る。 京都御所を後にする。 広いですね〰 半日かかりました。 嘉吉3年(1443)9月、吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れる事件が起こった。 禁闕の変と呼ばれ、皇位の正当性を示す三種の神器のうち「天叢雲剣」はまもなく清水寺で発見されたものの、「八尺瓊勾玉」は吉野の山奥に持ち去られてしまった。 |





