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場所 京都市右京区嵯峨小倉山堂ノ前町20-4 土佐藩邸跡にあった四天王像です。 詳しい地図で見る 落柿舎から嵐山城を見る。 のどかな風景だな〜 と思って見ていて見つけました! 畑の向こう側の「無勤庵」という豪邸。 高瀬川沿いにあった旧土佐藩邸役宅址に建つPLEXUSビルにあった「土佐四天王像」が何とここに。 説明板。 この像は右から 中岡慎太郎 坂本龍馬 武市瑞山 吉村寅太郎 これを土佐四天王という。 風雲急を告げる幕末の京洛に於いて元治元年(1864)坂本龍馬は中岡慎太郎と長州本陣天龍寺に長州藩士の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねるために立ち寄ったという口碑を伝えている。 彼らは倒幕の密議を交わし、薩長同盟を成立させ世界でも例のない無血革命の大政奉還を実現させた。 ここ嵯峨野でも彼ら情熱のある志士たちは、藩を越え新しい日本を夢見て東奔西走していた。 ここに偉大なる英傑たちの業績をたたえ後世に伝えるべく銅像を建立する。 今さらの話題ですが〜 |
京都史跡めぐり
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場所 京都市中京区槌屋町、薬師町、東夷川町、薬屋町 【赤松満祐邸跡】 播磨・備前・美作の守護職を兼ねた室町幕府の有力守護大名赤松満祐の邸は、「建内記」嘉吉元年(1441)6月24日条によれば、「西洞院以西、冷泉以南、二条以北」にあった。 これは現槌屋町を中心に薬師町・東夷川町・薬屋町の一部にまたがり、この地はかつての陽成院跡の南部にあたる。 この赤松満祐邸は嘉吉の変の起こった所で、嘉吉元年6月24日、六代将軍足利義教を迎えて酒宴が催され、観世音阿弥が「鵜羽」を演能中、満祐は将軍義教を弑逆した(建内記)。 この事件は義教の有力守護大名抑圧という方針を背景に、赤松満祐が、三ヵ国守護職没収とその赤松貞村への付与という風評を恐れ、将軍弑逆を謀ったのである。 事件後、赤松満祐は自宅に火を放ち播磨に下ったが、9月山名持豊を中心とする幕府追討軍に敗れ、城山城(現兵庫県揖保郡新宮町)で自害。 満祐の首は京都に送られ、三条西洞院の新獄にさらされた。 (平凡社「日本歴史地名体系27 京都市の地名」より) 西洞院二条下るにある京菓子店「二條若狭屋」。 この北側一帯に赤松満祐邸があったと云う。 付近一帯は宅地化してしまい全く痕跡は無い。 槌屋町内にある福永弁財天。 由緒があれば知りたかった… 赤松満祐は赤松円心則村のひ孫で、播磨・備前・美作の守護大名。 満祐はその背丈の低さから三尺入道などと呼ばれていたと云う。 応永34年(1427)に父赤松義則の没後その跡を継ぐ。 一方、籤引きによって将軍に選ばれた足利義教は、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活を図り、永享11年(1439)に関東管領足利持氏を討ち(永享の乱)、また翌年一色義貫、土岐持頼を殺害してその領国を没収するなど強権を振るいだす。 当初は足利義教とも良好な関係にあった赤松満祐だったが、赤松氏庶子家の満政・貞村らを厚遇したためにしだいに疎んじられ、弟赤松義雅の所領は没収、赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れる始末。 そして、事件は嘉吉元年(1441)6月24日に起きた。 「鴨の子が多数出来」たことと、関東の足利持氏征伐を終えた慰労という名目で足利義教を赤松満祐邸へ招いた。 赤松満祐は酒宴の最中に嫡子の教康と弟の則繁に暗殺を命じた。 一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門がいっせいに閉じられる大きな物音がたった。 癇性な足利義教は「何事であるか」と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅(近江浅井氏の祖公綱の父)は「雷鳴でありましょう」と呑気に答えた。 その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たちが宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや義教の首をはねてしまった。 酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名達の多くは将軍の仇を討とうとするどころか、狼狽して逃げ惑う。 山名熙貴(石見守護)は抵抗するがその場で斬り殺された。 細川持春(伊予分郡守護)は片腕を斬り落とされ、京極高数(出雲・隠岐・飛騨守護)と大内持世(周防・長門・豊前・筑前守護)も瀕死の重傷を負い、後日死去した。 公家の正親町三条実雅は、果敢にも赤松氏から将軍に献上された金覆輪の太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒。 庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。 赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げる事で騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名は退出した。 赤松満祐ら一族は幕府の追手が攻めて来たら自害する覚悟でいたが、夜になっても幕府軍は攻めて来なかったので、自邸を焼き払い、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と京を退去した。 幕府は、突然独裁者足利義教を失い混乱し、容易に討伐軍を編成出来なかった。 討伐軍が播磨に向けて京を出発したのは7月11日だった。 (おまけ) 赤松満祐邸跡に京都党なる地域政党が事務所を構えていた。 下剋上でも起こすのだろうか? |
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場所 京都市中京区柊町583-2 御池通(三条坊門小路)から高倉通を北へ上る。 この付近に室町幕府を開いた足利尊氏の邸宅があったと云う。 保事協会館の前に碑と説明板が平成7年に建てられた。 碑を拡大。 説明板。 【室町幕府発祥の地】 ―足利尊氏邸・等持寺跡− 京都府保健事業共同組合・保事協会館のあるこの付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(1305〜1358)の「三条坊門第」(「二条万里小路第」)のあったところである。 尊氏邸の範囲については諸説あるが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。 尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358)にはここで薨じた。 この地は、後に「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥地であったわけである。 後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められた。 尊氏は3つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられている。 等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たした。 しかし、応仁・文明の大乱(1467〜77)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院(北区)に合併されてしまった。 近代に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社であったという。 なおこの地は平安京の条坊表示では左京三条四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(873〜932)の邸宅「大西殿」があったことでも知られている。 後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子内親王(950〜999)の御所となった。 紫式部が『源氏物語』で描く藤壺中宮とその御所三条宮は、昌子内親王と大西殿をモデルにした可能性が高い。 京都府保健事業協同組合は、こうした由緒ある史跡の一角に活動の本拠を置くことを悦び、組合創立45周年を記念してここに顕彰碑および解説板を建立する。 1995年10月16日 京都府保健事業協同組合 解説 京都文化博物館 図を拡大。 足利尊氏の頃、将軍の公邸は室町通に面していなかった。 室町幕府の名は、現上京区にあった花の御所が室町通に面していたことに由来。 花の御所は三代将軍足利義満になってからである。 足利義満以降、三条坊門第は徐々に使われなくなり荒廃していった。 洛中洛外図には、残った等持寺と三条坊門第の鎮守社だった御所八幡宮が描かれている。 その後、等持寺は応仁の乱で焼失し、北区にある等寺院(北等持寺)に統合。 御所八幡宮だけが残った。 御池通の南にある御所八幡宮。 御池通に面した境内入り口。 説明板。 【御所八幡宮】 応神天皇。神功皇后、比売神の三神を祭神とする。 もと御池堺町西南角の御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移された。 この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、室町幕府初代将軍・足利尊氏が自らの邸宅内の守護神として勧請したことに由来するという。 尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また現在の地名から高倉八幡とも呼ばれ、親しまれてきた。 特に安産と幼児の守り神として有名で、左京区上高野の三宅八幡と並んで「虫八幡」と呼ばれ、世間の信仰を集めている。 京都市 手水舎。 手水舎にあった略誌。 拝殿。 最後にもう一度、旧境内地付近から見る。 室町幕府滅亡後衰微し往時を偲ぶべくもないが、御池通拡幅の為狭い現境内へ移転させられたものの概ね旧地付近に何とか残った。 他、足利尊氏の三条坊門第の痕跡を示すものとして、付近の地名に「御所八幡町」「東八幡町」「等持寺町」などが残っている。 (おまけ) 付近に咲く御池桜。 「不断桜」という種類の桜で、一年で最も寒い時期(写真は1月)に咲くけなげな桜。 付近の粋人が命名。 「御所八幡桜」の方が良かったなぁ。 |
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場所 京都市東山区松原通大和大路東入る轆轤町 【六波羅】 六波羅(ろくはら)は京都市東山区松原通付近。 鴨川の東岸、五条と七条の間の地で、現在は空也上人開山の六波羅蜜寺がある。 平安時代以来の歴史上の要地。 平正盛がここに邸宅六波羅殿(亭)を創設し、孫の清盛が、初め方一町ほどであったものを20余町までに造作して、平家一門が居住した。 このため、平氏政権のことを六波羅政権とよぶ。 鎌倉時代になると源頼朝がここに京都の邸宅をつくった。 承久の乱(1221)後は南北の六波羅探題を設置して、京都政界の監視、西国の訴訟事務などの政務を執行する幕府の一大分身機関とした。 また、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏が陣を構え、旧探題の職員をはじめ多くの御家人を吸収した地ともなった。 なお、六波羅密寺内に六波羅探題府址の石碑がある。 (Yahoo!百科事典より) 旧洛東中学校跡地に今年開校した東山開睛館。 公立の小中一貫校。 この付近に平氏一門の屋敷である六波羅第と鎌倉時代には六波羅探題があった。 付近の地図。 地名に名残が見られる。 東山開睛館があるのが多門町。 六波羅邸の東に向かって開かれた惣門があったことに由来。 門脇町。 惣門の脇に平教盛邸の門脇殿があったことに由来。 その北にある三盛町。 旧町名を泉殿町といい、平清盛の泉殿があったことに由来。 門脇町・三盛町の西にあるのが池殿町。 平清盛の継母である池禅尼が暮らし、平頼盛が引き継いだ邸宅があったことに由来。 平清盛の娘徳子が安徳天皇を出産したのはこの邸宅と云う。 さらに西へ。 北御門町。 西御門町。 ともに泉殿の北門と西門があったことに由来。 弓矢町は工人たちが兵器を製造していた場所に由来。 地名以外には、建仁寺に平教盛の館門(平重盛の館門とも)だったと伝わる勅使門がある。 国の重要文化財。 また、旧洛東中学校の校門脇に「平氏六波羅第・六波羅探題府址」の碑が建っていた。 しかし、校舎再建の為一旦撤去。 平成23年4月に東山開睛館として開校と共に校門脇に再度建てられた。 と、思ったら、数ヶ月後には六波羅密寺へ。 所在地 京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町 山号 補陀洛山 宗派 真言宗智山派 本尊 十一面観音(国宝) 創建 天暦5年(951) 開基 空也 今は、境内入り口脇に移設されている。 説明板。 【六波羅密寺】 天暦5年(951)、疾病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第17番所札所として古くから信仰を集めている。 空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊とする。 空也上人は醍醐天皇の第二皇子で、若くして出家し、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えたことで知られ、今に伝わる六斎念仏の始祖である。 往時は寺域も広く、平家の邸館や鎌倉幕府の探題が置かれるなど、源平盛衰の史跡の中心でもある。 宝物館には定朝の作といわれる地蔵菩薩立像のほか、空也上人立像、平清盛坐像、長快作の弘法大師像など数多くの重要文化財を安置し、境内の十輪院が仏師運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇に祀られていたという運慶・湛慶坐像も所蔵している。 年中行事として、正月三が日の皇服茶、8月の萬燈会、かくれ念仏として知られる12月の空也踊躍念仏(国の重要無形民俗文化財)が有名である。 京都市 本尊十一面観音像は国宝。 12年に1回、辰年に御開帳される。 ということは来年かな? 教科書でおなじみの空也上人像(国の重要文化財)や、 平清盛像(国の重要文化財)が宝物館にある。 境内にある阿古屋塚。 説明板。 そして隣は平清盛の塚。 平清盛の墓所は、この他に神戸市兵庫区の能福寺と清盛塚、京都市北区の祇王寺、山口県下関市彦島の清盛塚が伝わる。 平成20年(2008)の様子。 平成22年(2010)の様子。 屋根がつきました。 来年はもっと賑やかになりそう。 夏には萬燈会が行われる。 境内の大文字。 迎鐘。 我が国最初の地下の大つりがねだそうです。 日本最古の都七福神の一つ福寿弁財天。 現在の六波羅密寺の境内は大変狭いが、廃仏毀釈前の江戸時代までは大伽藍であったと云う。 平成23年(2011)8月20日には、西隣の元六原小学校の発掘調査現場で現地説明会が行われました。 説明会の様子。 専門的であまりよく解らなかったが、六波羅密寺の北限を示す遺構が出てきたようだった。 遺構平面概略図。 堀は薬研堀だったそうです。 城郭寺院みたい。 築地や門跡も検出。 飛鳥時代、平安時代から、 室町時代のものが多数出土。 寺域の北限は元六原小と西福寺の境辺りであったようだ。 もう聞くことが出来ないであろう六原小学校の校歌。 さて、この六波羅という地名は、仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来するとか。 六波羅蜜とは、この世に生かされたまま、仏様の境涯に到るための六つの修行をいい、波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ることだそうです。 最後に御朱印。 また、この六波羅密寺付近の町名は轆轤町。 ここから東は、かつては鳥辺野と呼ばれる葬送の地だったので髑髏(どくろ)が沢山転がっていたことから髑髏原と呼ばれるようになり、やがて六波羅や六原に変わったとも。 今ではそんなことはとても想像出来ない六波羅でした。 |





