三日月の館

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京都史跡めぐり

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場所 京都市中京区木屋町通三条上ル上大阪町528

池田屋から高瀬川を挟んで東側に、武市瑞山(半平太)の寓居跡であった料亭「四国屋丹虎」がありました。

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文久2年(1862)に仮住まいした場所だったという。
また、ここは長州藩や尊攘派の志士達の定宿で、池田屋事件の際には土方歳三の探索を受けたという。
現在は、「金茶寮」という料理旅館になっている。
武市瑞山ゆかりの部屋が現存しているそうです。
夏には鴨川納涼床でハモ料理や鮎の塩焼きなどの入った京会席が味わえる。
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門の前に石碑が建っていました。
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石碑しか見れず、中の様子が解らなかったのは残念でした。

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場所 京都市中京区木屋町通御池上ル上樵木町497

長州藩邸から高瀬川を挟んで東側に桂小五郎と幾松の寓居址がありました。

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薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる桂小五郎(=木戸孝允)と恋人であった幾松が住んでいたという。
現在は、「幾松」という名の京料理店と旅館になっています。
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入り口に碑が建っています。
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側面には「長州藩控屋敷址」と書かれていました。
長州藩邸が手狭になったため、桂小五郎はここを間借りして恋人の幾松と住んでいたという。
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奥に行ってみたかったが、場違いな感じがして足が止まった…
建物2棟が国の有形登録文化財に指定されている。
中には、新撰組の近藤勇に踏み込まれた時に、幾松が桂小五郎を隠したという長持ちや、抜け穴、飛び穴、のぞき穴、つり天井などが当時のまま残っているそうです。
見たかったなぁ〜
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昼食のお弁当  5,500〜
夕食の京会席 14,000〜
と書いてあった。
やっぱり…
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芸妓であった幾松は、その後木戸孝允の正妻となり名を木戸松子と変えた。
明治10年(1877)木戸孝允の死後、明治19年(1886)44歳で亡くなるまで松子はこの地に住んでいたという。
二人の墓は、東山区の京都霊山護国神社にあります。
その紹介は後ほど…

場所 京都市中京区河原町通二条南入一之船入町537-4

桂小五郎も出入りした長州藩邸跡です。
京都市役所の東側にありました。

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石碑が建っています。
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現地解説板です。
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【解説板の内容】
高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩(山口県)毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。
藩邸は、初め南北2か所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70メートル)、裏行31間(約56メートル)、南側屋敷は表口30間(約54メートル)、裏行8間(約14メートル)に及んだ。
元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え続けたという。
明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場(かんぎょうじょう)が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた。

この石碑は、御池通に面する京都ホテルオークラの門の柱の裏に隠れるように建っています。
解りにく〜い。
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河原町通に面して桂小五郎像が立っています。
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その後、明治4年2月に京都近代化政策の一環により産業振興の中枢機関として勧業場が設置された。
洋館2階建ての建物が創建され、商工業に関する事務・特産品の陳列などが行われたり、欧米各国の先進技術を導入した各種生産や製造施設が設けられた。
明治10年2月2日に、明治天皇が勧業場を視察されている。
明治14年(1881)に実験的役割を果したものとして廃止された。
長州藩邸跡の石碑の近くに碑が建っています。
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【おまけ】

現在では、京都ホテルオークラが建っています。
この建物を建築するにあたり激しい景観論争が繰り広げられた。
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京都ホテルオークラの起源は神戸の実業家、前田又吉が明治21年(1888)に川端二条で創業した旅館「京都常盤」である。
前田又吉は、神戸・諏訪山で「常盤花壇」という料亭を経営していた。
この料亭を開くにあたって、旧三田藩主九鬼隆義の出資を受けたという。
今ではその料亭の庭に建っていた石碑のみが、ホテルの裏に移されて現存しています。
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【『前田又吉銅像記』の現代訳】

前田又吉の銅像が成った。
又吉の遺族が来ていうには、

「又吉は、かつて伊藤公の知遇を得ました。公が京都や兵庫に来られた際には、いつも又吉の家に泊まられました。又吉の事績については、公はよくご存じですから、どうか、詩文にして、後世に遺していただきたいのです」と。
それで、又吉の歩んだ道をふりかえって見ることにした。

私が又吉を知ってから、三十年以上にもなる。
又吉は市井にあっても、たいへんよく世の中の動きをさとっていた。
それ故、往々、人の意表をつくような事業を始めた。
たとえば、鉱泉を開いたり。公園を造ったり、会館を設けたり、貧者を救済したりである。
どれも世の中に役立つことばかりだ。
これは後世に伝え遺すべきことだと思い、つぎのような詩をつくった。

  神戸之郷 四時清和 海洋々兮 山峩々兮
  又吉開荒 泉出山阿 煙供浴場 能痊沈痾
  徳長誉長 千載不磨

  明治二十六年十月 伯爵 伊藤博文 撰印
(京都ホテルHPより)
銅像は無かった…
又吉泉記です。
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【『又吉泉記』の現代訳】

神戸の諏訪山に霊泉が涌いた。
英国人某が、これを鉱泉として利用することをすすめたが、誰も信用しなかった。
ただひとり前田又吉が、資産を注ぎ込み、荒れ地を拓いて酒楼を建て庭をつくって温泉料亭をひらいた。
おかげで、人も住まなかった地が、数年のうちに、繁華な地になった。

これみな、前田又吉の功績である。
この泉を又吉泉と名付けることとした。

一六居士巌谷修撰書  明治15年10月
(京都ホテルHPより)
拝観停止されたら困るけど、一度泊まってみたいなぁ〜

場所 京都市中京区木屋町通蛸薬師西南角備前島町

坂本龍馬も出入りした土佐藩邸跡です。

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土佐藩邸跡に建つ旧立誠小学校。
平成5年に廃校になった。
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高瀬川を挟んだところに碑が建っています。
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現地解説板です。
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【解説板の内容】
高瀬川を渡った西側、河原町通に至る間の元立誠(りっせい)小学校の辺りには、江戸時代、土佐藩の藩邸があった。
当時は高瀬川に面しても門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架かっていた。
藩邸が初めて置かれたのは江戸時代で、元禄三年(1690)には、京都藩邸の守るべき法律が詳しく定められている。
藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛(ごようかかり)を指定して、各種の連絡事務に当たった。
土佐藩は、薩摩、長州と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で、武市瑞山、坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎らの志士が活躍した。
藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。
なお、この西側に鎮座する土佐稲荷・岬神社は、もと藩邸に鎮守社として祀られたもので、同社に参詣する町人のために藩邸内の通り抜けが許されていた。
旧立誠小学校の北側にあるPLEXUSビル。
旧土佐藩邸役宅址と書かれている。
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このビルに土佐四天王像があったハズなのですが、見当たらなかった…

細い路地(蛸薬師通)を河原町通り方面へ進むと、旧立誠小学校の北側に土佐稲荷・岬神社があります。

所在地  京都市中京区蛸薬師通河原町東入ル備前島町317-2
主祭神  倉稲魂命・石栄神
創建    貞和4年(1348)
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説明板です。
元々は土佐藩邸内にあったが、数度の移転により土佐藩邸用人邸跡であるこの地に遷座された。
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石碑。
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何と、坂本龍馬がかくれんぼしていました。
懐にピストルを持っています。
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こんなところにいたとは…
知らなかったです。

(おまけ)

土佐藩邸跡の石碑の前にこんな店がありました。
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表札は「坂本龍馬」
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新聞記事がたくさん貼っていました。
龍馬好きの人が集まる店なのでしょうか。
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さらに、ちょっと北へ行ったところにはこんな店も…
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こんなことまでやっているんですね。
やるなぁ〜

場所 京都市東山区三条通白川橋五軒町112

こんなところも史跡になるの?

坂本龍馬と妻お龍とが結婚式を挙げていたとか。

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結婚式場だった金蔵院跡地には、東山ユースホステルが建っています。
一度泊まりましたが、海外で泊まるユースホステルみたいに外人と友達になれなかった。
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玄関前に石碑が建っています。
写真まで飾ってあります。
宿泊者倍増?
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青蓮院塔頭金蔵寺跡であることは間違いないようです。
結婚式をここで挙げたことは、お龍本人が語ったらしい。
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これも最近建てられたようです。
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現地解説板です。
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【解説板の内容】
当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、明治32年(1899)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。
お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。
が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。
その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。
しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。
龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。
二人はながく別居夫婦だったのです。
当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。
石碑が建っているので、訊ねないわけにはいけません。
しかし、ここまで史跡にする必要があったのだろうか?


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