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登城日 2009年11月22日(日)曇のち雨 難易度 ☆☆ 場所 愛知県岡崎市細川町字御前田 仁木氏の城があったという仁木八幡宮の北に、細川氏の出身地があります。 詳しい地図で見る 仁木城方面から見る。 手前の白い家付近が居館跡です。 遺構かどうか疑問ですが、土塁のような丘の上に碑が建っています。 碑には「細川城址」と書かれていました。 側面には何か小難しい解説が書いてありました。 案内板にしてほしいな。 隣の民家の人に見つめられながらも登ってしまった… 細川御前田城から仁木城を見る。 白い家の右側に見える森です。 畑には窪みが見られました。 堀跡だったりして。 もう一度、碑のある丘を見る。 近くの細川交差点。 角には子孫の家なのか、煙火師の長坂専次郎の碑がある家がある。 今日の天気のように、何だかスッキリしない城めぐりでした。 【細川氏の概要】 (1)足利一門の守護大名。清和源氏。 嫡流は室町幕府の管領家。足利義康の曽孫である義季が鎌倉中期、三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市細川)を本領としたのに始まる。 義季の曽孫和氏・頼春・師氏兄弟とその従兄弟顕氏・定禅ら兄弟は、足利尊氏に属して四国、近畿などで軍功を重ね、一族で数か国の守護となった。 和氏の子清氏は将軍義詮の執事となったが追放された。 頼春の子頼之は中国に足利直冬党を攻め、四国で従兄弟清氏を討ち、管領となって将軍義満を助け、室町幕府と守護大名細川氏との基礎を固めた。 嫡流は代々、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を継いで管領となり、庶流5家もそれぞれ和泉(半国ずつ2家)、阿波、淡路、備中の守護を世襲した。 管領勝元に至り、山名宗全(持豊)と対立して応仁の乱(1467〜77)を引き起こし、その子政元は将軍を廃立して幕府政治を左右したが、養子澄之を擁する家臣に殺された。 それ以来一族・家臣分争して阿波の三好氏の台頭を招き、永禄4(1561)晴元が三好長慶に降り、管領細川氏はまったく没落した。 (2)江戸幕府の外様大名。本家は肥後熊本藩主。和泉半国守護細川元常の甥で養子の藤孝(幽斎)よりおこる。 藤孝は足利・織田・豊臣氏に仕え、丹後田辺(京都府舞鶴市)城主、その子忠興(三斎)は徳川家康に属し豊前小倉(福岡県北九州市)藩主となり、父子ともに故実、歌道などに長じた。 忠興の子忠利は寛永9(1632)熊本54万石を領し、子孫相継いで外様雄藩の藩主。 なかでも江戸中期の重賢は藩政改革に努め、名君として知られる。 忠興の弟興元、忠利の甥行孝、孫利重はそれぞれ常陸谷田部(茨城県つくば市)藩、肥後宇土(熊本県宇土市)藩、新田藩(のちに高瀬藩と改称、熊本県玉名市)の初代藩主となる。 明治維新後は4家ともに華族に列し、熊本の本家は侯爵、他の3家は子爵となった。 (Yahoo!百科事典より)ここが出身地かぁ〜 仁木氏の城跡から近いが、立地は低く、仁木氏の分家といった感じがしました。
実際、初代細川義季は仁木実国の弟であり、当時は小豪族だったのでしょう。 やがて、兄を凌ぎ、ゆくゆくは総理大臣まで出すとは。 |
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石碑いっぱいに刻まれた説明文を上手く撮影するのは難しいです。
上下2枚にする場合が多いのですが、時々真ん中あたりの一文字
が欠けてたりします…(^-^ゞ
しかし細かく廻られていて、いつも感心します。ポチっ。
2009/12/2(水) 午前 7:05
今回は一枚に収めるべくのけ反りながら撮りました。
後で家に帰って読もうとしましたが、漢字ばっかりで読めません。
やっぱり解説板にしてほしいと思いました。
2009/12/2(水) 午後 7:19
月の輪殿さん、やっぱり岡崎の細川は、足利幕府管領の細川氏と関係があったんですね。勉強になります。
この細川前田城ももう一つの細川山城も訪れてみようと思います!
WPいきますね!
2009/12/2(水) 午後 9:56
Shaneさん
いつも有難うございます。
細川氏の故地でした。
最後の記事で明らかにしたいと思います。
2009/12/2(水) 午後 9:59
るなさんと同意見です。よく写されました。
刑部城に行った時も、近隣住民に不信な眼を向けられました。
マイナーな所へ行く時の宿命ですね。^^
2009/12/2(水) 午後 10:33 [ mat**u_p*pa ]
あまりに仰け反ってあやうく小山から転げ落ちるところでした。
民家の人は家を覗かれるのではと警戒していたかも知れません。
2009/12/2(水) 午後 10:34