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登城日 1回目 2005年11月19日(土)晴 2回目 2010年 1月10日(日)晴 難易度 ☆ 場所 京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山
羽柴秀吉と明智光秀の天下分け目の戦いの舞台となった城です。 別名を天王山城といいます。 詳しい地図で見る 【山崎宝寺城の概要】 城のある天王山は、淀川を隔てて男山と挟む形で相対し、宇治川・木津川・桂川の三河川が合流するところが、山城国と摂津国の関門である。 この山麓を通る西国街道と河川の喉元を押える軍事・経済・交通の要衝である。 この位置は、京の権力を押えることと京都へ対する外圧を遮断するための絶好の山であり、古来から幾度か戦場になったところである。 城の記録は、建武5年(1338)6月、林直弘の軍忠状に「山城の国山崎警固の事(中略)八王子山に馳せ参じ、鳥取尾城5月29日より6月23日まで用害警護を致し候」とあり、摂津国の南朝方を防御するため摂津守護赤松範資が警護を命じたものである。 応仁元年(1467)10月、東軍の山名是豊が入城、その後野田泰忠の軍忠状に「同24日(中略)山名弾正殿御被官相共に山崎に着陣仕り(中略)城を鳥取尾山に構え在陣致す」とあり、山城守護山名是豊が摂津に乱入していた大内政弘らに対処したものである。 同14年には細川政元が入っている。 大永7年2月6日に「山崎の陣、薬師寺九郎左衛門尉没落すと云々」と『二水記』にあるように、これは細川高国打倒をめざす細川晴元党の柳本賢治が丹波より出撃、京都を席巻した時である。 その後、三好元長、柳本賢治、法華一揆、一向一揆などの諸勢力の争奪があったが、天文5年入京した細川晴元は、天文7年3月にみずから督励に赴いて修築を施し、その普請人夫は洛中洛外の各郷に賦課されたことが『親俊日記』『兼右卿記』に記されている。 天文8年三好長慶の反乱時にも細川晴元は芥川城と京都のつなぎの城として利用している。 天文10年6月、本能寺の変後の山崎の合戦で明智光秀はいったん男山城と天王山城を占拠し羽柴秀吉・神戸信孝らに備えたが、前日になって淀城・勝竜寺城へ引き下がる戦術を採ったため、天王山城を占拠した秀吉軍の優勢となり、光秀は逃亡する結果となったことが、『兼見卿記』『多聞院日記』に記されている。 その後、反秀吉の動きに備えた豊臣秀吉は、天正11年6月に摂津国大坂城に移るまでここを本拠として、宝積寺一帯なども宿舎等に利用したと考えられる。 なお、『兼見卿記』の同12年3月25日条に「今朝山崎之天主ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス」とあり、天守閣が存在したことがわかる。 (中世城郭事典より抜粋)最寄駅はJR山崎駅です。 京都府と大阪府の府境に位置します。 普段は静かな駅ですが、京都競馬開催日は、ここから淀までバスが頻繁に出るため、競馬ファンで賑わいます。 駅前広場に面してあるのが妙喜庵。 臨済宗大本山東福寺派に属す仏教寺院。 中に利休の茶室である待庵がある。 待庵(たいあん)は、犬山城下にある如庵、大徳寺にある非公開の蜜庵(みったん)とともに三名席と呼ばれる国宝です。 残念ながら、拝観するためには1ケ月前にハガキで申し込まなければならない。 どうしてもすぐに観たい人は、原寸大の模型が大山崎町歴史資料館で観れます。 いつか観たいと思います。 しょうがないので、山崎宝寺城へ向かいます。 JR東海道線の線路沿いを京都方面へ歩きます。 途中にあった変な建物。 日本プラスチック製砥の寮。 「ニップラさん」と呼ばれているそうです。 踏切を渡ったところに登城口があります。 登城口の碑が建っていました。 「この付近霊泉連歌講跡」の碑。 山崎宗鑑の冷泉庵があったそうです。 国の重要文化財木造阿弥陀如来立像のある、大念寺手前で道は二手に分かれます。 右へ行くと、アサヒビール大山崎山荘美術館経由で天王山へ。 左へ行くと、宝積寺経由で天王山へ。 前回は右へ行ったので、今回は左へ行きました。 所在地 京都府乙訓郡大山崎町大字大山崎字銭原1 山号 天王山、銭原山(旧・補陀洛山) 宗派 真言宗智山派 本尊 十一面観音(重要文化財) 創建 神亀元年(724) 開基 伝・行基、聖武天皇(勅願) 西国街道にある参道入り口。 宝積寺山門(木造金剛力士は国の重要文化財)。 本堂でお参り。 聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」を祀ることから「宝寺」の別名があり、大黒天宝寺ともいう。 秀吉が一時陣所としていたという。 特別拝観とのことで、特別料金を払って閻魔堂(木造閻魔王坐像は国の重要文化財)を観ました。 三重塔(国の重要文化財)。 本堂右奥に天王山登山口があります。 観光案内図。 ここから山道です。 登山道には陶板絵図「秀吉の道」があります。 読みながら登ると楽しく登れて、勉強にもなります。 「秀吉の中国大返し] しばらく登ると酒解神社の鳥居が見えてきます。 ここの鳥居の手前に「山崎合戦之地」の石碑が建っています。 旗立松。 説明板。 山崎合戦の地を見下ろす。 説明板と見比べると良く解ります。 「頼みの諸将来たらず」 「天下分け目の天王山」 しばらく歩くと十七士の墓があります。 説明板。 十七士の墓は、禁門の変(1864年)の時、戦いに敗れ天王山中で自刃した隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓です。 彼らは新政府樹立を夢見て革命を図りましたが時熟せず失敗に終わり、後の時代に夢を託して散っていった。 新政府の誕生4年前のことでした。 「明智光秀の最期」 所在地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王46 主祭神 大山祇神 創建 不詳(奈良時代) |
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説明板を見ながら登っていくのは石垣山を彷彿させますね。
これなら、登山のキツさを忘れられるかも(*^ー゜)b
2010/3/7(日) 午後 6:05
ちょっとしたハイキングコースになっていて、たくさんの人が登っています。
石垣山と違い、車では登れないので、「山に登った!」という気になります。
2010/3/7(日) 午後 8:56