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登城日 2010年 2月 4日(木)晴 難易度 ☆ 場所 愛知県豊橋市仁連木町136-2 先日ご紹介しました戸田氏は、戸田城から三河国上野城(愛知県豊田市)を経て田原城へ移る。
ここを本拠として渥美半島から東三河へと勢力を拡大。 支城として二連木城を築城し、今橋城(吉田城)の牧野氏と対峙した。 二連木城へは、豊橋鉄道の路面電車に乗り、競輪場前電停下車、北へ約5分くらい歩いた所にあります。 詳しい地図で見る 【二連木城の歴史】 二連木城は、戦国の世に入った明応2年(1493)に田原城主戸田宗光により築かれた。 この地に宗光が築城した理由は、渥美半島から北方進出するに際して今川氏の船形山城に対抗するためとも、またその頃、今川氏のうしろだてに豊川左岸に勢力を伸ばしてきた牧野古白の動きに対するためであろうとも伝えられている。 その後、二連木城は今川・松平(徳川)・牧野・戸田の諸勢力の攻防の渦中に巻き込まれた。 田原戸田氏が滅亡の際には二連木城の戸田氏は今川に属し、さらに、家康の吉田攻撃の際は徳川に内応するなど、その動きは複雑であった。 武田氏が吉田に攻め込んだ時は、再度にわたり二連木城で戦闘が繰り広げられた。 二度目に戦いの時の城主は戸田康長であったが、天正18年(1590)家康が江戸に移るとともに、武蔵国深谷1万石の城主に転じた。 一方、池田輝政が吉田城主となって、二連木城は廃城となった。 (豊橋市教育委員会「豊橋の史跡と文化財」より)二連木城は河岸段丘上にある。 本丸の南西隅部分。 高い土塁がありました。 この道路は空堀の跡のようです。 二連木城跡は大口公園になっています。 簡単な説明。 大口公園の説明。 初代豊橋市長であり衆議院議員であった大口喜六(明治3年(1870) 〜 昭和32年(1857))にちなんで命名された。 二連木城図。 現況図。 公園に入ると、南西側に土塁と空堀がありました。 空堀は土塁の外側だけでなく内側にもあるのですね。 よくぞここまで残りましたね。 西側になると土塁が少しずつ不明確になっていく。 空堀は良く残っています。 本丸北側部分。 北側は崖になっています。 下から見る。 河岸段丘の先端にあったことが解る。 本丸の北東部分。 本丸の東側には付属の曲輪があり、間に土塁がある。 この土塁上に城址碑が建っている。 東側の付属の曲輪。 もしかしたら、ここは虎口だったのかもしれない。 この曲輪には良く解らない祠や碑が建っています。 東側にも土塁が見られた。 土塁の東側の道は空堀跡。 その東側の豊橋市二連木老人福祉センターは二の丸跡。 二の丸北側の切岸。 本丸北側の切岸。 戻って、本丸南側の土塁。 本丸の南側には南曲輪があった。 南曲輪から本丸南東側土塁を見る。 もう一度二の丸跡を見る。 二の丸は道路で分断されているが、南へ続く。 二の丸の南側に鎮座する古城稲荷。 このあたりに内桝形の虎口があったようだ。 意外と遺構が残っていました。 このまま公園にしておくと、子供が蹴っ飛ばしたりして、土塁を壊してしまいそう。 保存が待たれます。 |
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ほんと住宅地の中、よくぞ!ここまで無事に残りましたね^^
内側も公園っていっても遺構を壊さない形で残してるのは関心します
土塁もしっかり残ってて見応えありますね♪
2010/3/16(火) 午前 9:03
初代豊橋市長大口喜六さんのおかげだそうです。
このまま保存してほしいものです。
2010/3/16(火) 午後 7:42
ここまで野ざらしでよく保存されているなぁというのが率直な感想です。
破壊されてはもったいないですね。
2010/3/16(火) 午後 10:19
宰相さん
せっかく初代豊橋市長が私財で保存していたものを、市民に開放するのはいいような悪いような。
完全なる私財ならいいのですが、史跡は別の方法もあるのではと思います。
2010/3/17(水) 午後 10:55
月の輪殿さん、二連木城よく残っていますね〜 このお城は最近読んでいる「風は山河より」にも登場しているので、馴染みがあります^^ 近いところですし、行ってみたいです!
いつもお城の情報有難うございます! WPいきますね!
2010/3/17(水) 午後 11:42
「風は山河より」は徳川家康の物語なんですね。
今度本屋で探してみます。
2010/3/18(木) 午前 0:16