|
登城日 2010年 6月17日(木)晴 難易度 ☆ 場所 群馬県前橋市石倉町5丁目 大友城の東に石倉城があったと云う。 詳しい地図で見る 【石倉城之記】 石倉城は文明17年(1485)上野国守護代で蒼海城主の長尾忠房の嫡子、長尾憲景が築城した。 応仁の乱が終わって(1477)8年後のことである。 当時の利根川の本流は現在の広瀬川周辺より左岸側に巾広く流れていた。 橘山の麓より利根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀に引き入れたという。 山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北条早雲が関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。 一方、総社長尾氏と白井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭してきた。 長尾憲景は永正9年(1512)新井城の戦いで戦死、三男長景が城主となった。 その後、享禄・天文・弘治年間(1528〜1557)にわたる数回の大洪水によって本流が久留馬川に移り、現在の利根川になった。 永録6年(1563)武田信玄の西上野への進攻に際し、長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が乗っ取り、城代として曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。 永録8年(1565)越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、荒井甚六郎を城代として守らせた。 石倉城は関東の要衝であるため、永録9年(1566)7月、再度信玄に攻め取られ、武田の武将で保渡田城主の内藤修理亮政豊及び外記親子が兼帯した。 その後内藤政豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条(きたじょう)丹後守高広に降り、北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部)が守った。 この間八十有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史をくりかえし、天正18年(1590)5月、徳川勢の進攻に対し寺尾佐馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉城に退いた。 攻めるは松平修理大夫康国であった。 康国はこの戦いで戦死、弟の松平新六郎が一千有余騎で攻めまくった。 左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今はこれまでと城に火を放ち、左馬助を始め残る城兵ことごとく城炎と共に相い果て、ついに落城の運命(さだめ)となった。 この様に幾万の将兵が死闘を尽くして戦った城池も、戦国の世と共にまぼろしの彼方に消え去り、今はただ「石倉」という地名を残すのみとなった。 よって後の世にその名をとどめ伝えべく、石倉城の記とした。 平成元年3月吉日 石倉史蹟愛好会撰文 大渡町交差点の北東にある王山古墳。
前方後円墳だそうです。 この南に石倉城があった。 今は宅地化してしまい、良く解らなくなってしまった。 石倉町5丁目の住宅地の一角に石倉城二の丸公園が造られている。 というものの、公園を見渡しても城跡らしいものは無い。 公園の隅にある城址碑、説明板、縄張図がかつてここが石倉城のあったことを物語る。 外郭図。 石倉城の右半分は利根川によって流されてしまった。 昭和23年の航空写真。 このころはまだ外郭図のとおりに残っていたんだなぁ〜 こう見ると、利根川の右岸にある厩橋城が、石倉城の三の丸を利用して築城されたと云うのが良く解ります。 利根川は石倉城の東側(今の前橋城の東側)、現在の広瀬川付近を流れていた。 石倉町4丁目へ行ってみる。 かつての外堀の地に、石倉城外堀公園が造られている。 ここには特に碑や説明板は無いようだ。 西側には上越線が通っている。 この線路の西側に大友城があった。 石倉城外堀公園から東を見る。 正面の群馬県庁のビルが建つ地が前橋城址。 こう見ると、かなり近く感じる。 滝川放水路。 ここが、石倉城の南端部分。 唯一残る外堀の遺構。 群馬大橋から石倉城を見る。 洪水によって利根川の水が石倉城の堀に流れ込み、石倉城の右半分が流されてしまった。 かつては、本丸に三層の櫓が聳えていたのかな? 厩橋城跡から見た石倉城。 利根川を挟んで激しい攻防が幾度となく繰り返された。 最後に、前橋城(厩橋城)へ向かいました。 |
全体表示
[ リスト ]




